田沢湖線という路線名は知らなくとも、「秋田新幹線」といえばほとんどの人が聞いたことくらいはあるでしょう。
秋田新幹線は盛岡~秋田の呼称ですが、実際は在来線と同じ線路を走っており、その正式名称は盛岡~大曲(秋田県)が田沢湖線、大曲~秋田が奥羽本線です。(このあたりの蘊蓄は語りだすと長くなるのですが、本記事では省略します。)
田沢湖線を3つの区間に分類すると
- 盛岡市内と小岩井農場の向こうに岩手山を拝む、盛岡~雫石
- 新幹線らしからぬ奥羽山脈越え、雫石~角館
- 秋田の穀倉地帯横手盆地を行く、角館~大曲
と、山地越えの路線ではお馴染みの「緩ー急ー緩」の基本的な三部形式です。
なお、分かりやすくするために区分けは新幹線停車駅で行いましたが、より正確には最初の境は春木場駅(雫石駅の次)、2番目の境は神代駅(角館駅の2つ前)です。
今回は立派で美しい秋田新幹線の車両ではなく、みすぼらしい普通列車で田沢湖線を盛岡駅から大曲駅まで、2020年12月中旬に乗車した様子を綴ります。
奥羽山脈を越えて横手盆地へ
普通列車の本数は非常に少ない
秋田新幹線「こまち」が頻繁に行き交う田沢湖線ですが、対照的に普通列車の本数は少なく、青春18きっぷ旅行者泣かせの路線です。
特に赤渕~田沢湖は普通列車の本数が4往復しかなく、盛岡~大曲を通しで運転する列車も3往復のみです。
「こまち」がいなければ田沢湖線は、同じ盛岡駅から東へ横断する山田線とさして変わらないくらいの閑散路線なのです。
区間列車で一番多いのは盛岡~雫石・赤渕で、盛岡市圏内の地域輸送を担っています。
秋田県内でも大曲~田沢湖の列車がありますが、こちらはそれほど本数は多くありません。
また、雫石に停車する「こまち」も少ないので、効果的な「ワープ」(青春18きっぷで途中特急列車に乗ること)が使いづらいのも悩みどころです。
普通列車の車両は東北地方でお馴染みの素っ気ない電車ですが、車内は通路を挟んでロングシートとボックスが千鳥状に配置されています。
盛岡~大曲の距離は75㎞程度ですが、普通列車の所要時間は概して長く、速い便でも1時間半程度、遅いものだと2時間20分以上もかかります。
「こまち」の運転を優先するために、普通列車は何度も駅や停車場で待ち合わせをするためです。
田沢湖線の乗車記
昼下がりの晴れた盛岡の気温は3℃。
東北を数日間旅行してきた私にとっては、とても暖かく感じられます。
4両編成の普通列車は盛岡駅を14時22分に出発しました。
結構人が乗っています。
青森の方を向いて出発し、すぐに東北本線と分かれます。
新幹線ホームから伸びてきた「こまち」用の連絡線に寄り添い、そのまま盛岡市街を高架で進んでいきます。
右手には奥羽山脈の最高峰、「岩手富士」こと岩木山の秀麗な姿が見られます。
やがて市街地も尽き、岩手山は丘陵地に隠れてしまいますが、小岩井駅あたりからはまた姿を現します。
まだまだ地面の雪はうっすらと積もっているだけです。
農場らしい風景ではありますが、冬のためか家畜が遊んでいる様子はありませんでした。
曇り空になり、岩手山もシルエットだけ残して消えてしまいました。
雫石駅では「こまち」の通過待ちで10分停車しました。
気が付くと車内にはもうほとんど乗客が残っていません。
この先の運転本数の少なさも納得がいきます。
ここで盛岡駅で買った駅弁を開きます。
実際は一ノ関駅の駅弁ですが、「鶏舞弁当」はよくある鶏めしですが、笹かまぼこや味噌しそ巻きなど、東北らしい品が添えられています。
岩手県でありながら宮城県に近いという点でも一ノ関らしい弁当です。
しばらく雫石盆地の田園地帯を走りますが、春木場駅を過ぎるといよいよ山脈越えに取り掛かります。
この地名は春の増水を利用して、材木を川で運搬したことに由来するそうです。
赤渕駅に到着した頃にはすっかり雪は深くなっていました。
赤渕駅からがいよいよ田沢湖線の渓谷美を楽しめる区間です。
急勾配と急カーブが連続し、頻繁に橋梁を渡るたびに深い谷をのぞき込みます。
「新幹線」という名にはおよそ似つかわしくない線路です。
ところで、意外にも田沢湖線は全線単線ですが赤渕駅~田沢湖駅の間は18㎞もあり、これでは列車運行に支障をきたします。
そのため、両駅の間に2か所、列車の行き違いができる信号場が設けられています。
正面に見える山塊を貫いて県を跨ぐのが仙岩トンネル。
さすがは新幹線を名乗る路線だけあって、ポイント部分はスノーシェルターに覆われ、人が住む気配もない秘境にもかかわらず防災設備は充実しています。
下手な駅よりもずっと立派な施設です。
大雪で周りの路線が運休になっても、田沢湖線の被害は比較的小さかった、という場面に何度も出くわしました。
両信号場の間には仙岩トンネルがあり、奥羽山脈の分水嶺を貫いています。
このトンネルの途中で岩手県から秋田県になり、上り勾配から下り勾配になります。
「こまち」も停車する田沢湖駅では意味もなく10分以上停車しました。
後で時刻表で調べると、この日は運転されない臨時の「こまち」を先に通すようです。
通常臨時列車は定期列車の間を縫ってダイヤが組まれるものですが、これが新幹線と普通列車の格差なのでしょう。
我が普通列車は、まるで自動車専用道路に迷い込んでしまった自転車のように、行き交う新幹線に怖気づきながらコソコソと走っていくのです。
ちなみに、田沢湖駅はかつて「生保内」という駅名だったのを、有名観光地にあやかったって改称したもので、実際は駅から田沢湖は見えません。
雪の降る静かな駅では、ドンドンピーヒャラと民謡が流れています。
田沢湖駅の前後は下り階段の踊り場のように車窓が開けます。
雪は降りやむ気配もありませんが、秋田犬と思しきモフモフの犬が畦道を朗々と散歩していたのには感心しました。
刺巻駅からはまた道は険しくなります。
森林資源が豊かなようで、大量の材木が積まれています。
次の神代駅あたりまでで、ようやく本格的な山越えは終わります。
開放的な気分に浸るべき場面ですが、出迎えてくれた日本海側の世界はどんよりと湿った感じです。
武家屋敷で知られる角館駅では22分も停車しました。
夕方にもなり、帰宅する高校生が数人ずつガラガラの列車に乗り込んできます。
外ではマフラーをしてマスクを着けていない人が多く、将来の秋田美人たちの頬が赤くほてっています。
停車中の車内は静寂に包まれ、元気そうな学生たちも周りを気にしているのかヒソヒソ声で話をしています。
角館からは秋田県の穀倉地帯である横手盆地を突っ走ります。
広々とした平地に防雪林を従えた民家が点在しています。
標高は下がり地形は平坦になりますが、雪は減るどころかどんどん深くなります。
地元の人は暖かそうなフリースを着ている人が多く、履いている靴も分厚く頑丈なものです。
やはり東京の空気を運んできた秋田新幹線とは客の雰囲気が違います。
盆地を進み続けるうちに外は暗くなり、奥羽本線と合流する終点大曲駅に着いたのは17時前でした。
奥羽本線は幹線、田沢湖線は支線という扱いなので「奥羽本線と合流」と書きましたが、立場が逆転した現在では「田沢湖線(秋田新幹線)に奥羽本線が合流してくる」と表現した方が的確です。
田沢湖線・秋田新幹線の車両と奥羽本線の車両は車輪の幅が違うので、大曲駅では両線のホームも離れています。
【軽便線から新幹線へ】田沢湖線の出世物語
全線開通までの長い道のり
今や秋田新幹線として大役を果たしている田沢湖線ですが、当初から恵まれた境遇にあったわけではなく、その歴史は自然環境や他線区との関係で苦難の連続でした。
鉄道網を全国に広げんとする大正時代、軽便線(建設にまつわる法的手続きが簡素化され、曲線・勾配の制限が緩く、駅設備も簡単な路線。車両の小ささや線路幅は関係ない)として盛岡~雫石間が1921年に開通したのが田沢湖線のはじまりです。
同じ年に大曲側も大曲~角館感が開通し、その後も両線はお互い歩み寄りますが、奥羽山脈に阻まれて難航していた工事は第二次世界大戦で中断されてしまいます。
しかも「不要不急路線」として一部の営業区間ではレールを剥がされ、他線区の軍事輸送強化に転用される憂き目にもあいました。
戦後工事が再開され、1966年に最後に残った県境の仙岩トンネルが開通し、ようやく全線開通が実現しました。
弱小ローカル線から特急電車が走る幹線に
しかし、難工事の末に誕生した田沢湖線ですが、結局は北東北を東西に横断するローカル線に過ぎず、盛岡~秋田を急行がちびちびと2往復するのがせいぜいでした。
この当時の鉄道による東京~秋田の移動は、奥羽本線(福島~山形~大曲~秋田~青森)経由が一般的で、仙台~秋田にしても田沢湖線のやや南を横断する北上線(北上~横手)経由の方が、距離や所要時間が短く済んだのです。
急行「南八幡平」は後に「たざわ」と改名される。
そんなパッとしない田沢湖線の飛躍のきっかけとなったのが、1982年の東北新幹線開業です。
同年11月、東北・上越新幹線の本格開業に伴い田沢湖線は電化され、それまでのディーゼル急行に代わって、新幹線と接続する電車特急「たざわ」(盛岡~秋田)がめでたくも誕生しました。
こうして田沢湖線は東京~秋田のメインルートへと成りあがったのでした。
この頃はモーダルシフトが進んでおり、新幹線開業を機に多くの東北の支線では急行列車の削減や廃止が行われましたが、そんな中にあって田沢湖線は独り勝ちでした。
その後も「たざわ」は順調に本数を増やしていきます。
ついに新幹線にまで上り詰める
さて、交通の流れを一変させた東北新幹線でしたが、やがてその恩恵を享受できる沿線とそれ以外の地方の不平等が顕著になりました。
その解決策として考えられたのが、在来線の線路幅を新幹線と同じ幅に広げて新幹線の車両を通す「ミニ新幹線」で、1992年に山形新幹線(当時は福島~山形)がこの方式で開業します。
山形新幹線の成功を受けて、今度はいよいよ田沢湖線が「秋田新幹線」へと昇格します。
1997年に登場した秋田新幹線の列車名は、秋田に相応しい「こまち」に決定し、速度向上と乗り換え時間の短縮により、最速列車の東京~秋田の所要時間は4時間を切りました。
航空機との競争で優位とはまだ言えませんが、新幹線網の拡大と高速化の一環としては大きな一歩でした。
そして2013年には国内最速となる320㎞で運転可能なE6系が登場し、新型車両に統一された翌年には全定期列車の所要時間が3時間台を実現して今に至ります。
百姓から関白になった豊臣秀吉に負けずとも劣らない出世を果たした田沢湖線ですが、その歩みには鉄道網の拡大や戦時体制の影響、そして新幹線を軸とした輸送への集約化といった歴史が凝縮されています。
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