日本のチベットを往く山田線、快速「リアス」の乗車記【盛岡~宮古】

ローカル線

山田線は現在の東北本線の終点、盛岡駅から東に北上高地を越えて太平洋側の宮古駅に至る路線です。
この路線の特徴は何といっても、かつて「日本のチベット」と呼ばれていた超過疎地域を走ることです。
市街地が展開するのは盛岡と宮古の周辺だけで、その人里離れた寂寥とした沿線風景はまるで北海道、それも道東の石北本線や石勝線を思わせる雰囲気です。

青線が山田線。
国土地理院の地図を加工して利用。

2020年12月中旬に、昼過ぎ盛岡駅を出発する山田線の列車に乗って宮古駅を目指しました。

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北上高地の難所を走る

超過疎ダイヤ

山田線の定期列車では、盛岡~宮古まで通して運転されるのは1日なんと4往復のみ。
その他に盛岡側と宮古側で区間運転の列車がいくらかある程度で、全国でも屈指の閑散としたダイヤです。
また、全区間運転される列車のうち1.5往復は快速「リアス」となっています。
そのため快速が通過する山越えの途中にあるような駅は、1日2.5往復の列車しか停車しない秘境駅です。

盛岡~宮古はおおよそ100㎞で、所要時間は快速だと2時間少々、普通なら2時間20分程度です。
なお、同区間では路線バスがほぼ1時間毎に運転されており、山田線は快速の所要時間では互角ではあるものの、利便性では大差を付けられています。

スイッチバックの跡が残る

乗車したのは盛岡駅13時51分発の快速「リアス」。
東北でどこでも見かける2両編成のディーゼルカーで、通路を挟んで2人用と4人用のボックスシートが並んでいます。

盛岡駅から山田線に乗る

山田線の列車は北側に向かって盛岡駅を出発しますが、すぐに東北本線と分かれます。
山岸駅までは盛岡の市街地が続きます。
盛岡駅を出た時から空いていましたが、乗客は降りていく一方で車内は数人になっていました。

まだ10分も乗っていないというのに、辺りは早くも川沿いの山間部となります。
集落はめっきり減って、その代わり廃屋が目立ちます。
上米内駅かみよないはすっかり寒村です。

上米内駅

上米内駅からはいよいよ本格的な山越えです。
次の区界駅くざかいまでの距離はなんと25㎞もあり、延々と急勾配と急曲線が続き、列車は米内川に沿って何十回も橋を渡りトンネルを抜けます。
ちなみに、蒸気機関車が走っていた時代は機関車が急勾配のため煙を大量に吐き出し、しかもトンネルが25㎞中9㎞もあってシャツが煤煙で真っ黒になってしまうことから、山田線の列車は「カラス列車」とよばれていたそうです。

現在は新幹線並みの距離がある上米内駅~区界駅ですが、以前は途中に大志田駅と浅岸駅がありました。
どちらも勾配の途中にあるのでスイッチバック式の構造(後に廃止)で、今でもその跡を確認することができます。
一つ目の廃駅、大志田駅ではスイッチバック時代の駅舎も残っていました。

大志田駅跡にて、スイッチバック構造を見る。
スイッチバック時代の大志田駅跡

針葉樹林に囲まれた細い川の流れに沿った線路は、人跡稀で時々廃屋が見つかるくらいです。
北海道の過疎地域とよく似た雰囲気です。
木を伐採した様子があるので、林業が営まれているようです。

二つ目の廃駅、浅岸駅はもはやその痕跡もなく、スイッチバックのホームがあった平坦なスペースに僅かな面影を見るのみです。

浅岸駅跡を過ぎてしばらくするとだいぶ車窓が開けてきます。

そしてついにサミットである区界駅(快速は通過)に達します。
ここは山田線のみならず東北地方の鉄道の最高地点で、標高は744m。盛岡駅からの距離は35㎞です。
数字だけ見ると驚くほどのことはありませんが、実感としてはとんでもない奥地にやって来た心地がします。

峠の駅、区界
区界駅のもう一方のホームは使われていない

区界駅を過ぎると少し勾配と曲線は緩み、それまでずっと苦しげに走っていた列車は解き放たれたかのようにスピードを上げて高原を快走します。
冬は雪に覆われていますが、ビニールハウスが散見されることから野菜畑が広がっているのでしょう。

しかしホッとしたのも束の間。
次の松草駅付近からは閉伊へい川に沿って急曲線が連続します。
小さな住宅か小屋か、木造の建物が時おり見られます。

この付近には北上高地の最高峰である早池峰はやちね山(1914m)がそびえています。
奥羽山脈との比較で北上高地は比較的穏やかな地形というイメージがありますが、それは山田線には当てはまりません。

川内駅かわうちには山なみと川に囲まれた健気な集落がありました。
またここには蒸気機関車時代の給水塔が残っています。

川面は凍り付き、その傍らに材木が積まれています。
線路とレールがきしむフランジ音をたてながら列車は下っていきます。

陸中川井駅は上米内駅を出発して以来初めての停車駅です。
東京の都心では5分間も止まらなければ快速列車ですが、山田線の快速「リアス」は実に1時間15分、全く駅に停車しません。

快速停車駅だけあって駅前には住宅や商店が並んでいました。
しかし、ここでも乗降客は0でした。

もう日没も近くなり、辺りは暗くなると共に車内の気温も下がってきました。
徐々に勾配は緩み谷が広くなってきたとはいえ、駅周辺以外には人影は無し。
さすがの私でもだんだんと気がめいってきます。

茂市駅は廃線となった岩泉線が分岐していた駅です。
ここまで来ると山を覆っていた雪も消えて川幅も広くなりました。

ボックスの反対側の座席に足を投げ出して盛岡からずっと寝ていて婆さんが、いつの間にか起きています。
私が車窓を眺めながら写真を撮ったりしていたので、「どこから来た?そんなに珍しいかえ?」と声を掛けられました。

ようやく沿線に住宅が並ぶようになり、並走する道路の車の量もかなり多くなってきました。
宮古の一つ手前の快速停車駅である千徳駅には新しい家が多い市街地が広がっています。

終点の宮古駅では三陸鉄道が南北に延びています。

宮古駅では折り返しとなる盛岡行き列車に結構沢山の人が乗ってきました。
山田線の将来に暗澹たる想いだった私は、それを見て大変うれしく思ったものです。

岩手県の太平洋側では最大の都市である宮古は、駅前に商業施設やホテルが建っています。
ここに泊まっていきたい気もしますが、この日は三陸鉄道で宿泊先の釜石まで行きました。
三陸鉄道の列車は山田線とは正反対で、車内は暖かく学校帰りの高校生で賑やかでした。

宮古駅
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山田線という名称と建設にまつわるエピソード

山田線は以前は現在の終点である宮古駅から太平洋沿いに南進して釜石駅に至る路線でした。
宮古~釜石間に陸中山田という駅があり路線名の由来でしたが、同区間は2011年の東日本大震災からの復旧を機に三陸鉄道に移管されたので、山田とは縁のない山田線として現在に至っています。

山田線の建設が始まったのは大正時代と古く、1939年に釜石まで開業しました。
なお、釜石線が全線開通したのは1950年です。
山田線より沿線人口も多く、おそらく建設も相対的に容易であっただろう釜石線(花巻~釜石)の方が遅れて開通したのは不自然ですが、やはりここにも政治力学が働いています。

山田線の建設が帝国議会で取り上げられた時、当時の首相は盛岡出身の原敬はらたかしでした。
当然ながら野党議員からは反対意見が上がり、「人の住まない所に鉄道を敷いて、サルでも乗せるのか?」という質問すら出たそうです。
それに対して原は「【鉄道法】ではサルは乗せないことになっております。」と答弁し、珍問答がたたかわされたと伝えられています。
(参照)「全線全駅鉄道の旅 東北2800キロ(小学館)」

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東北屈指の閑散路線

山田線は3つある北上高地を横断する「肋骨線」のうちの1つです。
それぞれ個性的な路線ですが、政治的に敷かれた「鍋弦線」の大船渡線は山越えといってもなだらかですし、ループ線のある釜石線も途中に盆地があり、沿線人口はそれなりにあります。
その一方で山田線の沿線環境は、自然条件にせよ人口や産業の集積にせよ、その厳しさが際立っています。

岩手県では盛岡市及び県南部と、その他の地域とで経済格差が指摘されています。
北東北の中心的存在である盛岡から山田線に乗って、かつて「日本のチベット」と呼ばれた地を走ると、そのことがよく感じられます。


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