本州を除く主要三島のなかで、九州・北海道と比べると存在感が薄いのが四国である。
全体的に穏やかというか地味な印象で、福岡・札幌のような圧倒的な力を持つ都市もない。
そして日本最後の新幹線空白地帯でもある。
2024年11月下旬、そんな四国を七日間かけて高松を起点として反時計回りに一周した。
本シリーズでは旅程を「みぎうえ」「ひだりうえ」「ひだりした」「みぎした」の4パート(部)に分けてその様子を綴っていく。
なお、一周旅行全体のルートや「上下左右」の概念については、ガイダンス記事を参照していただきたい。
本記事は「ひだりうえ」最終となる5回目。
2日目夜~3日目朝にかけての宇和島滞在である。
県都松山とは異なる、太平洋側に位置する「もう一つの愛媛県」がここにあった。
愛媛のグルメ即ち宇和島グルメ
18時前に宇和島駅到着後、駅直結のホテルにチェックイン。
部屋で一休みしてから、すぐに外出した。
フロントで聞いた有名店は金曜日の夜なので、案の定満席だった。
空きができたら呼んでもらえるということで電話番号を伝えて、市内を散歩して腹を減らすことにした。
外へ出る時、後ろでフロアマネージャーらしき男性が「席待ちの人がようさんおるけん。これ以上は断らなあかん。」と言うのが聞こえた。
20分くらい歩いて宇和島港に着いた。
停泊しているのは貨物船や漁船が主で、フェリーは近隣の離島を結ぶ小型船のようだった。
愛媛県のなかでも宇和島市は特に漁港が多いらしい。
なお九州行きのフェリーが発着するのは八幡浜である。
港の隣には地域の特産品売り場や郷土料理のフードコートがある道の駅もある。
名前と電話番号を知らせて1時間後に店から電話がかかってきた。
愛媛県は魚の養殖が盛んなことは2話で触れたが、より厳密には「南予」と呼ばれる宇和島を中心とした県南部である。
そしてミカンなど柑橘類の主な生産地も南予だし、県のご当地グルメとして知られる「鯛めし」や「じゃこ天」も宇和島が発祥の地だ。
つまり宇和島は愛媛県の食文化における県都なのである。
ちなみに、愛媛県は今治を中心とした「東予」・松山を中心とした「中予」及び「南予」の3つの地域に分けられる。
それぞれ製造業・サービス業・農林水産業が盛んな地域であることを、1話から5話にかけて少しでも感じてもらえただろうか?
さて、刺身盛り合わせはお決まりの前菜だ。
その後、ぼけら(エボダイ)塩焼き・はらんぼ(ホタルジャコ)ちぎり揚げ・ふか(サメ)の湯引きなどなどを注文する。
聞いたことのない魚でも、実は知っている魚の地方名であることが多く、そういうのを頼めばまず間違いない。
ハランボはじゃこ天の主原料となる魚で、そのハランボ100%で造ったこのちぎり揚げは、まさにじゃこ天の真髄・あるいは上位互換といえる。
他にカツオ藁焼きやウツボなど、高知を思わせるメニューがあった。
カウンターの隣に座った女性二人組が、「隣の人が食べてるの美味しそうやから」と言って、私と同じものを頼んだ。
いつの間にか私は営業担当みたいになってしまい、二組のカウンターには全く同じメニューが並んだ。
二人は大阪から車で来た友人同士で、明日は高知に行くらしい。
彼女たちも下灘駅のことは知っていた。
有名な「鯛めし」は明日ホテルの朝食で食べる予定だから、シメは古くから食べられていたという「さつまめし」にした。
魚のほぐし身と麦味噌を合わせて、ご飯にかけて食べる。
薬味や出汁の絶妙なアシストもあって、腹いっぱいなはずなのにご飯がすすむ。
カウンターの前にいた料理人と大阪の二人組に挨拶して店を出た。
維新ゆかりの宇和島
昨晩は暴飲暴食をしたので、朝一番に鯛めしを食べられるか心配だったが、不思議と旅行中は体がよく働くものである。
とはいえ、7日間の旅程のうちまだ3日目の朝だ。
鯛めしはほどよく脂ののった鯛の刺身に出汁と生卵をかけて食べる料理で、松山にも専門店がたくさんあるくらい有名である。
今日は宇和島駅前10時35分発のバスに乗る。
それまでは宇和島市内観光をしよう。
戦国時代まで、この地方の中心は昨日訪れた卯之町のある西予市だった。
耕す土地も少ない宇和島の町が発展するきっかけは、秀吉の朝鮮出兵の前線基地として城が築かれたことである。
この仕事を任されたのが、本シリーズで何度もご登場いただいている築城の名手、藤堂高虎だった。
彼の功績もあって、予讃線沿線には驚くほど名城(例えば高松・丸亀・今治・松山・大洲・宇和島)が並んでいる。
江戸時代になると、仙台藩主伊達政宗の長男である伊達秀宗が初代宇和島藩主に就く。
関ヶ原合戦以来の徳川家への忠勤に対する功績とも、外様大名弱体化策として伊達家を東西に分断する意図があったとも言われている。
真偽のほどはともかく、将軍家から10万石を与えられたので、宇和島伊達家は仙台伊達家の「分家」ではない。
しかし地元の人々の尊敬を集めているのは初代藩主秀宗ではなく、幕末期に開明的な藩政改革を行って宇和島を雄藩に押し上げた宗紀(7代)と宗城(8代)である。
特に伊達宗城は「幕末の四賢侯」の一人に数えられ、蘭学を重視し藩の軍事近代化も進めた。
卯之町にシーボルト門下生の高野長英の隠れ家があったのもそのためである。
そんな維新ゆかりの宇和島城下町を散策しながら城へ向かう。
ここにも高野長英の居住地があり、その他には明治24年の大津事件において内閣の圧力から司法の独立を守った児島惟謙の生誕地も城に近い。
南側の門から城に入り、本丸へ。
3年ほど前に宇和島城と伊達博物館・天赦園には来たことがある。
だが、9時少し前に天守閣が開館して人が入っていくのを見ていると、自然に私もそちらに足が向いた。
本丸に建つ現存天守閣は背丈は高くはないが、その高い装飾性のためかどっしり構えた迫力がある。
天守閣最上階から街と港と入り組んだ海岸線を見渡す。
宇和島を象徴する景色だ。
その反対側では、山地と城の間に挟まった市街地に朝もやがかかっていて、こちらも印象的だった。
1階には地元の中学生による「見てろよ江戸幕府!」と銘打った、宇和島藩に関する自由研究が掲示されていた。
「やはりSNS時代の子供は挑発的なタイトルが好きだな」と思って拝読すると、問題提起に対して仮説や表を用いながら結論を出していて、内容はとてもよくできている。
冒頭の「1959年」(正しくは1595年)と、最後に律儀に記した「参考分献」はご愛嬌であろう。
本丸への登山道の途中にある城山郷土館に寄った。
宇和島ゆかりの偉人が多数紹介されている。
「汽笛一声新橋を」に始まる鉄道唱歌の作詞者である大和田建樹も、ここの生まれだと初めて知った。
この歌が出版されたのは1900年、予讃線が全通して大和田の故郷宇和島が全国の鉄道ネットワークに組み込まれたのは、終戦直前の1945年6月になってからである。
最後に宇和島市立歴史資料館を訪れた。
明治17年に建てられた警察署を移築したもので、外観のみならずその構造にも洋風技術が駆使されているという。
パンフレットには「日本人が独自に建築した擬洋風建築」とあるが、いずれにせよ当時の宇和島の先進性を物語る木造洋館だ。
資料館の隣の石垣は樺崎砲台跡がある。
幕末の1855年、やはり最新の西洋技術を導入して築造された。
埋め立てが進んだ今と違って、当時はこの辺りは海に面していたことが分かる。
以上、短い時間だったがすっかり宇和島を満喫した気分になった。
秋田県知事によるPRのおかげでじゃこ天の知名度は上がったとはいえ、グルメと維新の街、宇和島の魅力が充分に知られているとは到底いえない。
ここは愛媛県あるいは松山市に遠慮することなく、幕末の西南雄藩を指す「薩長土肥」を「薩長土宇肥」に改めるよう、宇和島市が全国に働きかけたらよい思うのだがどうだろうか?
ホテルに戻ってチェックアウトを済ませ、高知県西南部の宿毛行きバスを待つ。
以上で第1部四国「ひだりうえ」は終わり、「ひだりした」パートとなる。
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