四国一周七日間・第1部4話、特急「宇和海」で内子・卯之町を経て宇和島へ

旅行記

本州を除く主要三島のなかで、九州・北海道と比べると存在感が薄いのが四国である。
全体的に穏やかというか地味な印象で、福岡・札幌のような圧倒的な力を持つ都市もない。
そして日本最後の新幹線空白地帯でもある。

2024年11月下旬、そんな四国を七日間かけて高松を起点として反時計回りに一周した。
本シリーズでは旅程を「みぎうえ」「ひだりうえ」「ひだりした」「みぎした」の4パート(部)に分けてその様子を綴っていく。
なお、一周旅行全体のルートや「上下左右」の概念については、ガイダンス記事を参照していただきたい。

本記事は「ひだりうえ」の2日目後半。
松山駅を出発して大洲を観光した後、特急「宇和海」に乗って内子・卯之町と、小粒ながら魅力ある町を訪れた。

スポンサーリンク

劇場の町、内子

「ひだりした」後半
赤線:今回のルート、黄色線:特急のルート
国土地理院の地図を加工して利用

13時50分、伊予大洲駅から特急「宇和海」で僅か9分で内子駅に着く。
屋根と駅名標をレトロにこしらえた駅舎の上に、無機質なコンクリートの高架式ホームを被せたちぐはぐな感じの駅だった。

1986年に予讃線の新線(向井原駅~内子駅)が開業して特急の通るルートに組み入れられるまで、伊予大洲駅から内子駅まで延びる内子線は短小かつ終点(内子駅)が行き止まりの路線、つまり盲腸線だった。
そんな頼りなさげな路線でも、内子の人にとってはありがたかったのだろう。
駅前には蒸気機関車が静態保存されている。

駅から5分くらい歩くと内子座がある。
内子は大洲藩に属し、和紙や木蝋もくろう生産で栄えた宿場町である。
町の人々は文化・芸術を愛し、大正5年にこの劇場を完成させた。
昭和後期には老朽化で取り壊しになるところを、町民の熱意により歴史的建造物として復元されたという。

内子座は現在工事のため休業中だと聞いていたが、幸運なことに今日は臨時で無料開放しているとのこと。
重厚な外観から想像した割には内部が狭く感じた。
ヨーロッパの劇場のような華美な装飾は少なく、代わりにスポンサーの商店などの看板が当時のように並んでいる。
館内にはガイドもいて舞台・客席・仕掛けについて説明してくれた。
こういう所に来る機会は滅多にないし、舞台・客席のみならず二階席(大向)や地下(奈落)を見学することもできて満足した。

土曜日のためか、通りでは出店があちこちで開かれ、若者たちが買い食いしながら集まってゲームをしている。
時々明治~昭和初期に建てられたと思われる洋館もあった。

内子座からさらに5分ほど歩くと街並み保存地区に入った。
なまこ壁の白・黒・黄色の建物が並び、一部は商店や資料館になっている。
江戸や明治の時代、ここに多くの富と人が集まったであろうことが、この街並みを歩いていると感じられる。
ところで、すれ違う通行人を見て感じたのは外国人の多さだった。
日本の伝統的な街並みでそれなりに観光地化されている内子は、確かに彼らの求める「ニッポン」に合致しているのだろう。

ゆっくりすることはできなかったが、内子座を見学してから街並み保存地区の端まで歩いても1時間で戻って来れた。
もちろん2時間確保したほうが望ましいのだが。

14時53分発の宇和島行き「宇和海」に乗る。
伊予大洲駅を出発して鉄橋を渡りながら再び大洲城を見る。
九州行きフェリーが発着する八幡浜駅やわたはま付近では、急な山の斜面を切り開いた段々畑が目立つ。
縞模様のように見える細長い平地に、住宅やミカン畑が窮屈そうに並んでいた。
段々畑は愛媛県南部を代表する景観となっているが、耕作に不適の土地でも耕さなければ生きることができなかった、この地域の貧しさの象徴であるともいえる。

急勾配を登り宇和盆地に出ると、先ほどまでの景色とは正反対の広々とした水田地帯となる。
しばらく水を得た魚のように走り、15時32分に卯之町駅うのまちに着いた。
無人駅だが駅舎は最近新しくなったようだ。
「卯之町」という地名は町名ではなく、西予せいよ市宇和町に所属する。
ここが西予市の中心で駅前には市役所がある。

スポンサーリンク

学校の町、卯之町

卯之町はかつて城下町、その後宇和島藩のもとでは宿場町として発展した。
駅周辺にも江戸~明治期の街並みが保存されている。
景色としては内子と似ているが、ここには外国人はおろか日本人観光客もほとんどいなかった。
だがその分落ち着いて観光できた。

卯之町は学校の町である。
1882年に町民の寄付によって建てられた開明学校を訪れた。
白壁にアーチ形の窓は一見すると洋風だが、屋根には瓦を葺いた擬洋風建築の校舎だ。

靴を脱いで内部に入る。
当時の教科書や掛図など様々な教育資料が展示されており、当時の教室を再現した部屋もあった。
椅子に座って生徒になることも、教壇に立って先生になることもできる。
オルガンを「風琴」と書くのを初めて知った。
なお隣にある屋敷は、開明学校の前身となった江戸時代の私学「申義堂」である。

開明学校のチケットは宇和民具館と共通(受付は民具館)になっている。
ここは郷土の伝統芸能で使う道具にはじまり、戦後の生活用品に至るまで多数の民具を展示している。
子供がとても興味深そうに観覧していた。
私にとって懐かしいと思われる昭和時代の製品も、彼にとっては「歴史」に属する民具なのだろう。

駅に背を向けて坂を上ったところに宇和米博物館がある。
昭和3年に建築された開明学校後進の小学校校舎を移築した博物館で、稲作に関する資料や用具を見ることができる。
もっとも「米博物館」というのはいわば建前で、この施設の見所は校舎の構造、つまり柱のない109mにも及ぶ廊下である。
ここでは雑巾がけ体験をすることができ、そのタイムを競うイベントもあるらしい。
幾つもある教室のうち博物館として利用されているのは一部で、市役所の移住相談窓口からネイルサロンまで、様々な業態に活用されていた。
黒板で覆われた部屋があって、方々から来た人が思い思いのメッセージを残していた。
私も何か書こうかと思ったが、チョークと黒板の感触が嫌いなので辞めた。
その代わりに黒板消しクリーナーのスイッチを入れて、懐かしい音に聞き入った。

ちなみに私は小学生の時、雑巾がけは嫌いではなかったし、そのスピードも速かった。
その秘訣はこうである。
雑巾を水で濡らしてほとんど絞らず、折りたたんで細長い状態にして軽く握って、手の平は床に付けた状態でやるのだ。
そうすれば摩擦抵抗を受けずに進むことができる。
当時は半ズボンだったから、膝をついたまま滑り込んで前の生徒によく体当たりしていた。
もし、これも「雑巾がけ」と認められるなら、私はかなり優秀なタイムを叩き出せるはずである。

雑巾がけ大会の会場

さて、街並み保存地区に戻る。
建物をよく見ると、鬼瓦(瓦屋根の端)の装飾も凝っている。
暗くなりはじめた街並みは、より一層しっとりした風情を滲みだしていた。
昔から教育熱心な土地なだけあって、地元の人々は礼儀正しい。
ヘルメットを着用して自転車で家に帰る学生も、犬の散歩する若者もきちんと挨拶する。
飼い主に似るのか、犬でさえ吠えたりせず尻尾を振ってよそ者を歓迎してくれる。(イヌの性質としてそれが望ましいかはともかくとして。)

静かな路地に、ひっそりと幕末の蘭学者の高野長英の隠れ家がある。
ここはやはり蘭学医の二宮敬三が開業していた住居の離れだった。
江戸幕府を批判したために追われる立場だった高野長英を宇和島藩がかくまっていたため、彼は一時的にここに住んでいたという。
なお高野長英と二宮敬三は、長崎でシーボルトの教えを受けた学友同士であった。

卯之町観光を終えて駅に戻る。
今日の午後訪れた内子と卯之町では、内子の方が圧倒的に有名で人も多かった。
地元の人々の熱意が向かった先は「遊び」(劇場)と「学び」(学校)で正反対に分かれたが、町の雰囲気としては似ている。
そのうえで行き先をどちらか一つに選べと言われたら、個人的には卯之町をおすすめしたい。
なお今回は行かなかったが、卯之町駅から歩いて山腹の方に行くと愛媛県歴史文化博物館がある。
昔の学校を見るだけでなく本当に勉強したい人にとっても、卯之町は訪れる価値がある。

駅舎に「卯」の文字とウサギが描かれた提灯が燈っていた。
遠くから見ると大きな居酒屋のように見える。
だが学校の町なだけあって、待合室にも黒板の伝言板が設置されていた。
明るい駅舎を出て、暗く寂しいホームで列車を待つ。
17時31分、宇和島行きと松山行きの特急「宇和海」が同時にやってきた。
静寂を打ち破る列車のライトとエンジン音に圧倒されて、誤って松山行きに乗りかけてしまった。

今日は大洲・内子・卯之町をとりあえず満足に訪れることができた。
あとは宇和島駅まで20分。
強いて心残りを挙げるとすれば、予讃線最後の車窓ハイライトを見ることができないことである。
山の斜面はミカン畑に覆いつくされ、その向こうはリアス式海岸が見え隠れしているはずだ。
四国山地の西端を正確に定義することは難しいが、少なくともこの峠を越えると四国の太平洋側、つまり「裏四国」に出たといえるだろう。

ついに宇和島駅に着いた。
予讃線の旅は始点も終点も行き止まり式の駅である。
今日は市内のホテルに宿泊する。

ホテルにチェックインしてコーヒーを一杯飲んでから、すぐに宇和島の街に繰り出した。




コメント

タイトルとURLをコピーしました