中国地方、特に山陰地方には、環境・役割も様々な特急列車が運転されてきました。
戦後に特急として活躍した車両たちとの対話を通じて、これまでの歴史を振り返ってみたいと思います。
議長は私が勤めます。
2021年10月某日、岡山駅にて
議長:本日はお集まりいただきありがとうございます。もう10月ですが山陽側はもちろん、山陰側も暑い日が多いですね。
さて、今回は「中国地方の特急とその地域構造」です。山陽新幹線が開通した現在、特急というと山陰の皆さんばかりになってしまうので、在来線時代に特急電車で活躍された151系さんにもお越しいただきました。
151系:宜しくお願い致します。
しかし何と申しますか、この場所も然り、メンバーも随分田舎っぽいですなぁ。私と381系君以外は皆ディーゼルカーではありませんか。
381系:151系さん、ここは岡山でっせ。さすがに「田舎」は言い過ぎとちゃいます?
151系:元は東海道本線の特急をやっていたものですから、私にとって神戸より西は田舎なのですよ。
各車両自己紹介
議長:それでは皆さんに軽く自己紹介をしていただきます。
最年長の151系さんからお願いします。
151系:改めまして、諸君ごきげんよう。1958年に我が国初の電車特急として誕生した151系です。華の東海道本線特急として、まさに我が国の看板列車といえる存在でした。その頃の山陽本線は、ようやく姫路までが電化された状況でしたな。
1964年10月に東海道新幹線が開業してやむなく失業した私は、新たな職場として山陽本線特急に就きました。
議長:ありがとうございます。
お次は、前に北海道の回にもお招きしたキハ82系(以下キハは省略)さんです。なお、今月で82系さんは還暦を迎えられます。
82系:この調子ではあと何回呼ばれるのかね?
今からちょうど60年前の1961年10月。「サンロクトオの白紙改正」と呼ばれるダイヤ改正で全国各地に気動車特急が新設されたが、その役割を担ったのが他ならぬ私だ。
特に京都から大阪・福知山経由で、そこから山陰本線をひたすら走って博多まで行く特急「まつかぜ」は、山陰にも新しい時代が到達したことを告げるものだった。
181系:お疲れ様です。私は1968年、当時は大出力エンジン搭載の車両として、主に山岳路線に投入されました。先輩の82系さんとよく間違えられますが、私の方が目つきがはっきりして、屋上にもデカい機器を載せて強そうでしょう?
中国地方は私にとって思い入れのある地でして、1971年に伯備線(岡山から米子へ北上する路線)の「おき」に始まり、これが翌年に「やくも」と改められました。その後も「はまかぜ」(播但線)・「いそかぜ」(山陰本線西部、現在廃止)など幅広く活躍しました。
議長:以上はOBの方でした。お次は国鉄型特急車両で唯一定期列車の現役、381系さんです。
381系:はいどうも。1982年に「やくも」を181系さんから引き継いで、もう40年にもなります。
私の特徴いうたら、何と言っても日本初の振り子式車両やということです。これはカーブに差し掛かる時にチャリンコ(関西弁で自転車の意味)みたいに車体を内側に傾けて、遠心力を緩和しますのや。ほんでもって、速度をあまり落とさずにカーブを通過できる、お客さんも乗り心地が良い、といったわけですな。
山がちな国土の日本において、私の登場は鉄道史に残る画期的な事件といってよろしい。
HOT7000系(以下HOTは省略):智頭急行からゲストで出演している7000系です。
私は1994年に、山陽本線の上郡と因美線の智頭を短絡する智頭急行の開業に合わせデビューしました。なお、冒頭151系さんが仰った「メンバーが田舎っぽい」というご発言ですが、私に関しては例外だと思います。
151系:7000系君、そういったことはパンタグラフ(電車が架線から電気を取り込む、菱形あるいは「く」の字型の機器)を頭に載せてから言うべきだと思いませんかな?
7000系:(小声で)またそのマウントですか…
まあそんなことより、私が「スーパーはくと」の運行を始めたことで、京阪神から鳥取へのアクセスが飛躍的に便利になったのです。
187系:私は2001年、山陰本線の高速化に合わせて、181系さんの後継車両として登場しました。
山陰地方の厳しい外部環境でも生き残るべく、私は体裁を繕って無駄遣いするのではなく実用本位に徹しております。それが私の生き様ですから、「ダサい」などもはや誉め言葉として承っております。「スーパーまつかぜ」(鳥取~益田)や7000系さんの相方として「スーパーいなば」(岡山~鳥取)などに就いています。
189系:こんにちは、189系です。私は播但線特急「はまかぜ」(大阪~浜坂・鳥取)の新型車両として2010年に登場しました。187系さんと違って、私はやはり客商売をしている以上身なりはきちんとせなあかん、と思っとうわけです。ですから、181系先輩の後を継ぐにしても、そのイメージ・貫禄を保ったまま、洗練された濃いめのピンク色で外観をいい感じにまとめてます。
Ⅰ 1950年代後半~60年代 <拡大期>
若き天才、151系「こだま」
議長:ありがとうございました。それでは151系さんから詳しくお話を伺っていきましょう。
151系さんの東海道時代は本日の回とは関係ないのですが、「そこをカットするなら参加しない」と言われてしまったので、まずはその話からお願いします。
151系:新幹線もまだない1958年に電車特急「こだま」(東京~大阪・神戸)でデビューした私は、当時の常識を覆す存在でした。特急列車といえば機関車に牽かれる客車で、一方電車は乗り心地が悪く、短距離移動用というのが当たり前でしたから。
しかし電車ならではのスピードによって、東京・大阪間をそれまでの客車特急よりも1時間近く早い6時間半で結び、日帰りが可能になったのでございます。それ故に、今も皆さんお馴染みの「こだま」という列車名を頂戴いたしました。
82系:151系殿と私は、戦後復興・近代化する日本の姿そのものだったのだ。
7000系:確かに151系さんのボンネットスタイルって、最近のコスパ重視でのっぺり顔の連中よりもずっとカッコイイですよね。
151系:その2年後には客車最後尾の展望車に相当する、通常の1等車より格上の「パーラーカー」が誕生しました。大形の窓を備え、1人用のリクライニングシートが並ぶ開放室と、定員4名の個室風な区分室があった超豪華車両でした。4年後の新幹線開業が分かっていてもなお、国鉄が威信をかけて造った車両です。
7000系:ちょっとごめんなさい。今風に言うと1等車がグリーン車、2等車が普通車、パーラーカーは形式的にはグリーン車の分類だけど事実上のグランクラス、みたいな理解でいいですか?
151系:仰る通りです。
サービスも一流でして、ボーイに頼むと電話機を持って来て、自分の席から電話をかけることができました。固定電話がまだ一般家庭に普及していない時代だということをお忘れなく。
山陰本線特急「まつかぜ」登場
議長:それでは151系さんの偉大な業績を改めて確認したところで本題にまいりましょう。
1961年10月に82系さんが登場したことで、中国地方のみならず日本全国に特急網が築かれました。
82系:当時は山陽本線といえども全線電化されていなくて、特急「かもめ」(京都~博多)は蒸気機関車の世話になっておったし、車内設備も特急としては格落ちだった。そんな「かもめ」を私が置き換えてやったのだ。
時を同じくして、山陰本線にも特急「まつかぜ」が運転を開始した。最初は松江止まりだったが、やがては九州の博多まで足を延ばすようになった。
187系:京都から福知山線・山陰本線経由で博多まで13時間半ですか。私の「スーパーおき」が5時間走ったくらいで、「耐久」とか仰々しく言われる現代では考えられませんね。
82系:「裏日本」と言われている山陰に、蒸気機関車機関車に牽かれた客車ではなく、赤とクリーム色のディーゼル特急が来たわけだからな。おかげで私は行く先々の日本海側の都市で歓迎されたものだよ。
あの時代に白黒からカラーになったのはテレビだけではない。鉄道も然りだ。
151系:そのセリフ、前回も仰っておりましたな。ところで、私も実はその1961年に中国地方進出を果たしたのでございます。
といっても岡山県だけですが、岡山駅と四国行きの連絡線が出る宇野駅を結ぶ宇野線が電化されて、東京~宇野の電車特急が新設されました。なんとその列車名が「富士」だったのです。
189系:四国連絡列車ごときに「富士」ですか?勿体ない話やなぁ。
151系:私もそう思いました。「富士」は戦前は東京~長崎に運転されるなど、まさに日本を代表する列車でしたから。戦後エリート列車のために温存されるも、なかなか出番が無かったので焦りもあったのでしょう。
後に「富士」の列車名が「大事にしすぎて婚期を逸した娘よろしく、三十六年新設の宇野特急電車に安売りされた」(大久保邦彦「時刻表復刻版解説」より)などと書かれる始末です。
東海道新幹線開業で151系は西に流れる
議長:さて、1964年10月に東海道新幹線が開業。山陽本線が151系さんの第二の職場になります。
151系:私は直流電車なので九州方面へは行かず(一時的な運用は除く)、「しおじ」(大阪~下関)や「うずしお」(大阪~宇野)を担当しました。
先ほど申した通り私は豪華編成を誇りとしているのですが、困ったことに東海道とは客層が違って、山陽本線では1等車、特にパーラーカーがさっぱり売れなかったのです。
1等車(パーラーカー) | 1等車 | 1等車 | 1等車 | 食堂車 | 2等車&ビュフェ | 2等車 | 2等車 | 2等車 | 2等車 | 2等車 | 2等車 |
1等2両、食堂車1両だった後輩の特急電車に比べ、際立って豪華な編成だった。
381系:そういえば、今でも東海道新幹線は16両中3両がグリーン車、一方山陽・九州新幹線の車両は8両中グリーン車は1両の半分しかあらへん。
151系:1等車を1両減らしたり、パーラーカーの特別料金の値下げをしたのですが、東海道時代は90%でも普通だった1等車の乗車率は30%程度と低迷しました。
ここに至って私は断腸の思いで、パーラーカーの開放座席を2等車に改造しました。
7000系:栄枯盛衰。東から西へ追われる平家物語そのものですねぇ。「しおじ」の終点も壇ノ浦のある下関ですか。
151系:新幹線が岡山まで延びてきた1972年以降は後輩にバトンタッチして引き上げました。1960年代以降、瀬戸内海沿岸は巨大なコンビナートができて工業化が進んでいたとはいえ、つくづく辺鄙な所に飛ばされたものですよ。
Ⅱ 1970年代~1980年代 <変革期>
伯備線「やくも」の新ルート
議長:1972年3月の新幹線岡山開業といえば、181系さんが伯備線の「やくも」に就きました。
181系:伯備線は中国山地を南北に横断する急勾配のある路線なので、パワーのある私が担当したのです。「やくも」は岡山で新幹線と接続する陰陽連絡列車で、これによって京阪神から山陰への所要時間が大きく短縮されたのです。
82系:おかげで私の「まつかぜ」は割を食ったがな。幹線である山陰本線が伯備線のような亜幹線に出し抜かれるとは不本意だ。
だいたい181系君は偉そうに所要時間短縮したと言っているが、実際に寄与したのは「やくも」ではなく新幹線の方だろう?
181系:まあ確かに、新幹線効果は大きかったですな。しかし険しいルートを大出力エンジンで以て開拓した私の功績ということにしていただきたい。
結果、岡山駅が中国地方における鉄道の一大ジャンクションとして機能するようになりました。東京・大阪からの新幹線と接続して広島・博多へ向かう「つばめ」「はと」、そして山陰へ向かう「やくも」、それから余談ですが四国に特急が走り始めたのもこの時で、私がそれらを担当しました。
189系:そういえば播但線経由の鳥取・倉吉行きの「はまかぜ」が登場したのも当時ですよね。姫路駅で「ひかり」と接続していたはずです。
82系:そうだった。遠方から新幹線で来て但馬・鳥取方面に行く人も利用していたな。
山陽新幹線全通で在来線昼行特急は全廃
議長:1975年3月に山陽新幹線が博多まで全通し、これまた陰陽連絡線、新幹線の駅ができた小郡駅(現・新山口)と山陰本線の益田駅を結ぶ山口線に、特急「おき」が新設されました。
187系:山口線は今ではSLばかりが有名ですが、本来島根県西部と山口県を結ぶ路線なのです。
181系:「おき」は最初の1年以外は私が勤めました。0系新幹線さんとは仲良くなりましたな。
議長:その新幹線によって山陽本線の昼行特急は全廃されました。その時には既に151系さんは山陽本線から撤退していたと伺いましたが、その後はどちらへ?
151系:新潟や長野です。雪も寒さも勾配も酷い、とんでもない所でしたよ。
何だかんだで山陽路は温暖で社会資本も整っていた分、相当マシなほうでしたな。やはり「走るなら太平洋ベルトに限る」と思った次第です。
181系:我が儘が過ぎやしませんか?いただいた仕事を粉骨砕身勤め上げてこその鉄道車両ではないでしょうか?
151系:181系君、いかにも没個性な車両らしい意見ですが、貴方にはプライドというものはないのですか?
181系:標準型とでも、社畜とでも言っていただいて結構!私は配属がどこになろうと、社会の歯車として勤労することを美徳と考えます。
伯備線電化で振り子式381系登場
381系:どうでもええがな、そんなこと。商売いうのは見栄でも美徳でもない。要するに稼ぎ続けることや。
1982年に伯備線とそれに繋がる山陰本線の伯耆大山~西出雲(現在)が電化されて、私が「やくも」を引き継いだのです。振り子式による曲線通過速度向上に加え、電車化によるさらなるパワーアップ、そして一部複線化が行われたことで、伯備線は山陰への主要ルートしての地位を固めました。まさに「伯備線は陰陽連絡線の白眉」ですわ。ハハハ。
82系:まだあの頃の山陰本線は京都口の電化も行われていなかった。だから短い区間とはいえ、架線が張られた時はなかなか感動したものだったな。
187系:米子~出雲市は山陰本線の心臓部ともいえる区間で、部分的に複線化もされています。山陰地方では珍しく平地が広がり、人口や産業が集積しているのがあの辺りなのです。やはり走っていて同僚とすれ違うって嬉しいものですよ。
7000系:先ほどから気になっていたのですが187系さん、あんた本当に島根の方ですか?なんか東北弁訛りというかズーズー弁のように聞こえるんだが?
187系:松本清張の名作「砂の器」をご存じありませんか?出雲地方は東北弁に似た方言なのです。ところが、同じ島根県でも石見(県西部)は広島に近い言葉ですから不思議ですよね。
381系:昔の話やけど宍道駅で、木次線(宍道~備後落合。砂の器の舞台の亀嵩を経由する)通って広島行く急行の車両が「おすすにすんぶん」とか言ってはった。後で知ったけど、あれ「お寿司に新聞」やったらしいわ。
82系:砂の器!諸君、知っておるか?私はあの映画に出演しているのだよ。伯耆大山をバックに颯爽と走る特急「まつかぜ」、日本海に面した集落の風景、そして郷愁をたっぷりと帯びた音楽が流れるあの場面だ。
※映画の一場面ではありません
151系:まあしかし、82系君なんて脇役ですな。我らが鉄道の主役は、感動のクライマックスで轟々と音を立てて来る蒸気機関車D51先生ですよ。
82系:全くその通りだ...いや失礼、還暦を過ぎると涙腺がもろくなってな。
7000系:不要不急の旅でもない刑事が、東京から山陰まで新幹線と特急を使って移動していたなんて、我々からすればいい時代だなぁ。いつ頃の作品でしたっけ?
議長:1970年代前半です。
あの映画では最初から最後まで日本海が出てきますね。明るいようでどこか寂しさがある情景は、作品全体に通じているように感じます。
功労者82系は徐々に第一線から退く
189系:議長、いつまでも映画の話しとんのはどうかと思いますよ。話し戻しませんか?
議長:失礼、そう致しましょう。
1980年代になると82系さんも世代交代期に差し掛かり、相次いで181系さんにバトンタッチをされました。
181系:伯備線もそうですが、当時あちこちで電化が進んでいまして、実は私も転職活動で必死だったのです。
上野駅を模した大宮鉄道博物館の特急・急行電車。
189系:昔は電車と気動車の格差は大きかったのです。その意味で181系先輩は、気動車が電車の性能に近づくための大きな一歩を踏み出されたわけです。そして、押し寄せる電化の波に揉まれながらも、非電化区間で82系さんの後釜を務められたのです。
JRになってからはエンジンの性能も良くなり、私なんかはそこらへんの電車には負けません。
82系:気の毒だったのは、私が身を引き始めた80年代は中国自動車道や国鉄の値上げで、「はまかぜ」や「まつかぜ」も以前のような勢いがなくなっていたことだ。ついに1985年には、「まつかぜ」は181系君への交代と共に米子止まりになって食堂車もなくなった。そして翌年には廃止されてしまった。
181系:あれは象徴的でした。特急やその脇を固める急行の編成は簡素になり、本数も減っていった時代だったのです。
Ⅲ 1990年代~2000年代初頭 <高速化時代>
智頭急行開業で「スーパーはくと」登場
議長:1987年に国鉄が分割民営化され、JR西日本が誕生しました。新会社としての意気込みもあって各地でスピードアップやアコモ改善が進んだのがこの時代の特徴でしょう。
381系:その頃は「スーパーなんちゃら」いう列車名が流行ったな。かくいう私も一部列車が「スーパーやくも」になって、車両もリニューアルされた。それに先頭車両のグリーン車もパノラマ型に改造されて、我ながら若返りしたと感じたもんや。
189系:若返りというか、あそこまでしたら整形手術ですよ。
381系:とにかく、「スーパーやくも」になって私も張り切りましてね。民営化された当時の「やくも」は岡山~米子を2時間15分くらいかけとったけど、停車駅を減らしたり、きばって(頑張って)走った結果、同区間で2時間を切ってしもうた。
7000系:ほう、お若いですな。しかし私の「スーパーはくと」(京都~大阪~鳥取~倉吉)デビューのインパクトはそんなものではありませんよ。
議長:そういえば「スーパーやくも」と「スーパーはくと」の運行開始は同じ頃でしたね。
7000系:同じ1994年ですね。その時に智頭急行(上郡~智頭)が開業したことで、兵庫県と鳥取のアクセスが飛躍的に向上したのです。驚くなかれ、「はまかぜ」で4時間以上かかっていた大阪~鳥取がなんと2時間半です!高速道路のおかげで苦戦していた区間ですが、ここに鉄道復権がなされたのです。
鳥取県はもはや関西広域連合の仲間入りです!
ついに山陰本線にも高速化が及ぶ
議長:民営化後に全国で行われた積極的な新型車両投入やスピードアップは、2000年代初頭まで続いたように思えます。その最終盤になってようやく「偉大なるローカル線」こと山陰本線にもその恩恵が行き渡ります。
187系:山陰本線の鳥取~米子~松江~益田は、鳥取・島根両県の主要都市が並ぶ区間です。自治体の協力も得て高速化が実現したのを機に、振り子式機能付きの私が登場したのです。山陰本線は遅いというイメージも払拭されたのではないでしょうか。
山陰本線内の「スーパーくにびき」の他に、益田から山口線に乗り入れて新山口で新幹線に連絡する「スーパーおき」がそれぞれ大幅にスピードアップを果たしました。なお、「くにびき」の方は後に伝統ある「スーパーまつかぜ」に改名しています。
7000系:鳥取県側の山陰本線は意外と平坦ですけど、島根県側は断崖絶壁が続くそうじゃないですか。そんな区間、よく高速化のために投資してもらえましたね。
187系:まあ確かにそうですね。それでも港町が点在している感じですよ。
82系:山陰本線が長大幹線としての面目を幾分取り戻したのは大変結構なことだ。
しかし悲しいかな。私の時代の12両編成の堂々とした、グリーン車に食堂車付きの「まつかぜ」が、今はみすぼらしい2両編成の特急列車とは。
187系:高度経済成長期に戦後の鉄道黄金期を築かれた82系さんと、平成不況真っただ中に過疎地域で登場した私を比べるのはどうかと思いますよ。
Ⅳ 2000年代~ <模索期>
「いそかぜ」撤退で山口県の山陰本線から特急が消える
181系:島根県の益田まで高速化された後も、その先では依然として私が「いそかぜ」を担当しておりました。北九州地区の電車たちから邪魔者扱いされて博多行きが小倉止まりとなり、本数も1往復のみという厳しい状況でした。
しかし、187系君は「いそかぜ」を引き継がず、結局「いそかぜ」は2005年に廃止され、山陰本線の山口県区間から特急が消えてしまったのです。
187系:北九州と山陰の輸送は、新幹線と「スーパーおき」の方が便利ですし、「いそかぜ」は沿線人口も少なかったのでやむを得ない処置でした。
181系:やはりJR世代は考えが甘い。需要は「在る」のではない、「創る」のだ。
7000系:先生、今どきそんな昭和な精神論は流行らないっすよ。それともどこか観光地や名産品でもあるんですか?
181系:無礼者め!
観光地ですが、江戸時代に毛利氏が転封された萩は、私のような長州育ちにとって自慢の地ですな。何と言っても我らが吉田松陰先生の教えのもと、木戸孝允や高杉晋作などの偉人が育った街なのです。明治維新の震源地と言って過言ではありますまい。
例えば「○○であります。」という日本語の表現。これは元々、長州の軍人が使っておった言葉なのであります!
151系:明治初期の江戸では、新政府を「おはぎ(長州)とおいも(薩摩)」と呼んでいたそうな。
181系:そんな話は聞いたことはございませんぞ。
それから名産品ですが、これはズバリ総理大臣であります。初代伊藤博文に始まり、近年稀にみる長期政権を築いた安倍晋三まで、これまで数多くの総理を輩出しております。
381系:それはそれは、けったいなもん作ってはりますな、おはぎさん。
ようやく「はまかぜ」にも新型車両
議長:最後にお待たせしました。2010年に181系さんが唯一残っていた「はまかぜ」も、車両更新が行われ189系さんが誕生しました。
82系:今さらだが、189系君は中国地方のカテゴリーに当てはまるのかね?運転区間も兵庫県で完結しておらんか?
189系:いえ、1往復だけ鳥取まで行きますよ。私は181系さんの後継車なのですから、ここにいるのが相応しいと考えます。それに有名な余部橋梁を走る優等列車は私だけですから。
7000系:しかし、鳥取行きなら私の「スーパーはくと」の仕事ですし、城崎温泉あたりは大阪からだと電車特急の「こうのとり」を使うのが普通でしょう。「はまかぜ」って微妙な列車ですよね?
189系:「大阪からだと」ねぇ。関西は大阪だけですか?私は「こうのとり」が通らない神戸・播磨地方の皆さんの利便を図っているのです。女子旅とか言って三ノ宮とか姫路から城崎温泉に行く垢ぬけた女性客に満足してもらえるよう、外観だけでなく座席や内装も赤系のトーンで仕上げてます。
7000系:それにしては、189系さんは保守的な容姿ですね。私みたいに流線形にした方がモテるのに。
189系:流線形だけがカッコイイみたいな価値観は嫌ですね。きっと貴方の中では「美女=金髪のロングヘアー」になっとんやろけど、そういう発想がいかにも地方、もしくは「ギャル」が流行った90年代ですわ。伝統と新しさが織りなす気品いうものを理解してへん。
187系:私は質実剛健派ですが、神戸の方はお洒落好きですね。でも外見を気にするあまり車体傾斜装置が無いと不便だと思いますが?
189系:車体傾斜装置は備えていませんが、最高速度130㎞で走ることができますよ。それに7000系さんよりハイパワーです。
京阪神地区では新快速の奴らが生意気に「ディーゼル特急さん、我々の足手まといにならんとってくださいよ」とか言ってきよう。せやから、彼らに速力で負けんようにするのが大事なんです。「はまかぜ」の合間に、東海道本線の通勤特急「びわこエクスプレス」の副業もする私にとってはなおさらです。
まとまりのない中国地方
議長:さて、今までのお話を一通り伺っていると、中国地方は何というか一体性がありませんね。これまで地方で座談会をやると、最後には「一致団結して頑張ろう」というノリになるのですが、皆さん向いている方向が様々な気がします。
151系:中国地方の最大都市は広島ですが、岡山だって関西圏の影響力の方が大きいでしょう?実際に、岡山の人は野球でも、広島カープではなく阪神タイガースファンが多いらしいではありませんか。ちなみに「つばめ」を任されていた私は今でもヤクルトスワローズファンですが。
議長:山陰にしても「やくも」の走る出雲市あたりまでは関西との結びつきが強いのでしょうが、187系さんの「おき」の話を聞いていると北九州・福岡都市圏もあてにしているようだ。7000系さんに至っては「鳥取は関西広域連合」とまで言っている。189系さんにしても、関西の新快速との張り合いと、神戸の女性からの好感度に意識が集中している。
381系:そもそも山陽と山陰とで、全く風土が違いますがな。岡山から米子まで「やくも」に乗ればよう分かるで。
189系:おっしゃる通りです。明石海峡大橋の付近で見る、船が沢山行き交う瀬戸内海と、余部橋梁から見る海岸線が複雑で、ただ広々とした日本海とでは全く印象が異なります。その辺りが議長が砂の器に関して触れた「日本海の寂しさ」に繋がるのでしょう。
82系:私が「まつかぜ」の運用を始めて山陰地方の諸都市を丁寧に縫っていった頃は、「山陰路」はもう少しまとまりがあったのかもしれん。だが、今まで後輩達が誇らしげに語ってきたように、所要時間短縮のために山陽本線・新幹線と陰陽連絡線を介したルートが主役になり、太平洋ベルトと山陰諸都市は「線」ではなく「点」で結ばれるようになった。多様性と言えば聞こえは良いが、これも中国地方の一体性のなさに影響しているのだろうな。
7000系:181系さんの総理大臣の話で思い出しました。私に良い案があります。
議長:ほう。是非教えてください。
7000系:今の総理も地元が広島ですけど、その次の話です。その次は「永遠の次期総理候補」こと、自他ともに認める鉄道マニアで鳥取県出身のイシバシ(違った?)さんになっていただきましょう。そして山陰新幹線を造ってもらえば地域全体の経済活性化に繋がります。
181系:君、けしからんことを言うでないぞ。これでは我々が「我田引鉄」を目論むタチの悪い圧力団体みたいではないか。
189系:40年前に新潟でやって批判されたことをまたやるんですか?そもそも高度経済成長期の発想を、今どき得意げに披露されているのに違和感を覚えます。いや、一周まわって新鮮やな。
187系:山陰新幹線は極論でしょうが、鉄道が適切に活用され、改善されることでよりよい中国地方を創ることは可能だと考えます。
戦国時代、毛利に敗れた尼子家(出雲国)の再興のために命を捧げた忠臣、山中鹿之助は「我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈ったそうです。我々も逆境の中でも、否、逆境の中でこそ果たすべき役割を忘れずに努力したいものです。
189系:相変わらず堅いこと言っとんな。まあ、現役同士よろしく。
181系:結構ですな。中国地方は東京からは遠いですが、だから何だと言うのです?長州藩士のように、ここから日本全体を変えてやりましょうや!
議長:こういう流れを待ってました!これでようやく締めることができそうです。
皆さん、本日はありがとうございました。
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