今から60年前の1961年10月、戦後の経済成長に伴う需要急増を受け、国鉄(現在のJR)で歴史に残るダイヤ改正が行われました。
その規模の大きさと昭和36年10月に行われたことから、「サンロクトオの白紙ダイヤ改正」とも呼ばれています。
「白紙ダイヤ改正」とは、従来のような手直しでは不十分なため、一旦ダイヤを白紙に戻して再構築するという意味です。
当時の時代背景は
- 高度経済成長が軌道に乗り、前年に池田隼人内閣が「所得倍増計画」を発表。
- 東海道新幹線開業を3年後に控える。日本初の高速道路(名神高速)が開通するのも2年後。
- 道路整備・自家用車保有いずれも未熟。3C(カラーテレビ・クーラー・自動車)が普及するのは1960年代中盤以降。また、航空機では前月に国内線初のジェット機が就航するが、運賃はかなり高かった。(例:東京~大阪の特急利用で1,980円、航空機が6,300円、ジェット機はさらに1,000円増し)
本記事の原典である1961年10月号の時刻表より、冒頭の「今月の話題」にあった4つのトピックスについて、それぞれ見ていきましょう。
なお、本記事で紹介している時刻表の写真は全て1961年10月号のものです。
キハ82新製に伴い特急列車網が全国に広まる
発展の遅れた地方にも特急が進出
サンロクトオの大改正で必ず語られるのが、特急列車の運転線区が全国に拡大されたということです。
それまで9往復だった特急列車が26往復と、およそ3倍に増発されました。
新たに特急が運転されたのは以下のルートです。
路線と区間 | 列車名 | 備考 |
宇野線(岡山~宇野) | うずしお(大阪~宇野)・富士(東京~宇野) | 新規組唯一の電車特急。宇野から四国の高松行き宇高航路に連絡。 |
日豊本線(小倉~宮崎) | かもめ(京都~宮崎・長崎) | 長崎へは戦前から特急運転実績あり。 |
福知山線・山陰本線(尼崎~福知山~松江) | まつかぜ(京都~松江) | |
北陸本線・信越本線・羽越本線・奥羽本線 (米原~新津~青森) | 白鳥(大阪・上野~青森) | 日本海縦貫線。当時は米原経由。 |
高崎線・信越本線(上野~長野~直江津) | 白鳥(大阪・上野~青森) | 直江津駅で大阪発の列車と併結。 |
東北本線(上野~仙台) | ひばり(上野~仙台)・つばさ(上野~秋田) | 仙台以北は既に「はつかり」の運転あり。 |
奥羽本線(福島~秋田) | つばさ(上野~秋田) | |
函館本線・室蘭本線・千歳線(函館~室蘭~札幌~旭川) | おおぞら(函館~旭川) | 北海道初の特急列車 |
それまでの特急列車の運転区間は、太平洋ベルトとして工業化が進む東海道・山陽筋(東京~博多)がほとんどで、それ以外だと九州の博多から鹿児島と長崎に寝台特急が直通する程度、東京以北に至っては「はつかり」(上野~青森)だけという有様でした。
以下、今回の改正で登場した特急列車のうち、独断と偏見で「おおぞら」「まつかぜ」「白鳥」の3つについて紹介します。
北海道を代表する列車「おおぞら」
現在札幌~釧路で活躍する「おおぞら」は函館を早朝4時55分に発って札幌9時25分着、旭川には11時25分に到着します。
始発駅の函館の時間が不便なのは、「白鳥」や「はつかり」が青森に深夜に着き、その後青函連絡船を介した接続の結果でした。
つまり「おおぞら」は北海道3大都市を結ぶというよりは、大阪・東京と札幌・旭川を結ぶ列車という性格が強かったのです。
翌年には旭川の手前の滝川から根室本線に入る釧路行きの編成も組み込まれ、今に繋がる釧路特急のイメージを確立しました。
その後も「弟分」ともいえる「おおとり」「北斗」が登場し、「おおぞら」自身も増発され、北海道における特急列車の黄金期の中心的存在となりました。
北前船の子孫、日本海沿いを走る「白鳥」
大阪から北陸地方を経由して青森まで、果てしなく日本海側を走っていく「白鳥」は所要時間が寝台特急並みの16時間近くにもなりました。
青森駅の発着は深夜早朝でしたが、青函連絡船を介して特急「おおぞら」と接続し、札幌での時間帯は良好でした。
当時は北陸本線特急の代名詞「雷鳥」もなく、古い客車が多かった日本海縦貫線では「掃き溜めに白鳥」というべき別格の存在でした。
そんな中で、唯一の特急「白鳥」のスジが列車名そのままに堂々と美しい。
なお「白鳥」の大阪発時刻は805の間違い。
1970年代後半からは長距離輸送は航空機に移行し、往時のような輝かしさは失われていきますが、奇跡的にも2001年3月まで生き残りました。
21世紀にあって国鉄色のボンネット特急が約1,000㎞の長距離を走る姿は、まさに特急電車全盛期を思い起こさせる白鳥の歌でした。
山陰の雄、「まつかぜ」
「白鳥」とともに「時代を超越した偉大な存在」として讃えられたのが、山陰本線特急の「まつかぜ」です。
京都から福知山線経由で山陰本線を往くこの列車は当初は松江駅でしたが、数年後にはなんと山陰本線を走破して九州の博多まで渡りました。
やがて山陽新幹線開業や中国自動車道の整備など、外部環境は不利になっていきますが、1980年代半ばまで博多乗り入れを続けました。
幹線で大活躍する特急電車が新幹線開業で次々と撤退していく中、東西で日本海側を地道にひた走る両列車が時代に翻弄されつつも長く親しまれたのです。
その後「まつかぜ」の辿ったルートを引き継ぐ列車は細分化が進み、新大阪発の特急は「こうのとり」(城崎温泉行)が頻繁に運転されています。
「まつかぜ」の名前は鳥取~益田の列車に残り、高速の振り子式気動車が投入されて、たったの2両編成ながら健闘しています。
食堂車付きの10両を越える列車が、長距離を走っていたダイナミックな時代を懐かしむのさえ過去の話になりました。
サンロクトオの目玉、キハ82
全国的な特急ネットワークの構築を可能のしたのは、今回の改正で新生された気動車特急車両キハ82でした。
この当時、東海道本線こそ全線複線電化されていましたが、山陽本線は三原まで、東北本線は仙台までしか電化されていませんでした。
動力の近代化(蒸気機関車から電車・気動車へ)を急いでいた国鉄にとって、キハ82はまさに新時代の到来を象徴する存在でした。
キハ82は前年に登場した初代特急型気動車キハ81の改良型です。
ブルドックのような顔が特徴的なキハ81は「はつかり」(上野~青森)としてデビューしましたが、出力が小さく初期故障も頻発したため、「がっかり」「はつかり故障ばっかり」などと揶揄されました。
この苦い経験を踏まえ、出力を向上して信頼性を高め、分割併合も可能な時代の寵児、キハ82が登場したのです。
なお、戦前以来国鉄の電化が遅れていた要因は、戦時中敵軍の攻撃により電化設備が破壊されることを恐れたためと言われています。
実際に、蒸気機関車は焼夷弾に耐えながら戦時中・戦後と国民の生活を支えたわけで、浸水しただけで廃車されてしまうハイテクの新幹線とは正反対のしぶとさをみせました。
実際に主役だったのは急行と準急
ところで特急列車が26往復に増えたとはいえ、それでも「少ない」と思いませんでしたか?
この頃は「特別急行」はまだまだ庶民にとって高嶺の花で、普通急行(急行)や準急行(準急)が数の上では圧倒的だったのです。
写真は153系の改良型の165系。リニア鉄道館にて。
この時に急行列車は63往復から113往復に、準急列車は200往復から224往復に増発されています。
これらの数字と比較すると、そのインパクトとは裏腹に特急列車の勢力など実は微々たるものだったのです。
距離に応じた特急料金の区分けが今ほどきめ細かくなかった当時、特急列車は基本的に長距離乗車するものでした。
また、1960年代初頭は現在以上に階級意識というものが強く残っており(令和の時代になっても不逮捕特権を持つ「上級国民」は未だ存在しますが)、特急(特に1等車)利用客というのはそれなりの社会的身分のある人たちでした。
そのため、中小都市間移動や短期間の旅行における数時間の移動では、急行・準急を利用することが一般的でした。
同じ線路の上を普通列車に加えて3種類の優等列車が、それも同じ種別でも電車と客車が入り乱れて走るダイヤを時刻表で見るのは実に楽しいものです。
同じ急行でも「よど」は電車で、客車の「雲仙」「高千穂」と比べると、停車駅が多いにもかかわらず所要時間が短い。
なお、準急列車は1960年代中盤に急行列車への格上げが進み、1968年10月に種別自体が消滅します。
また、2016年に最後の定期列車「はまなす」(青森~札幌)が廃止された急行ですが、制度としてはまだ残っており、臨時列車で使われる余地を残してはいます。
生活水準向上による寝台専用列車の増発
1958年に満を持して登場した電車特急「こだま」は、東京と大阪の間を日帰りできるという意味で付けられた列車名ですが、実際には昼行特急で往復するとなると目的地の滞在時間は数時間しかなく、新幹線開業までの同区間の移動は時間を有効に使える夜行列車が主体でした。
夜の東京駅からは、19:30発の急行「はりま」姫路行きに始まり、その後ほぼ10分毎に夜行急行が西へ出発していく様子は圧巻の一言です。
逆に長距離列車を多数運行したため通勤電車は不十分で、ラッシュ時の混雑は今よりも遥かに殺人的(しかも車内にクーラーが無い)な様相を呈していました。
ところで夜行急行には、電車で運転され座席車主体のエコノミー指向の列車と、客車で運転され快適性重視の寝台専用列車の2種類がありました。
今回の改正で寝台列車が東海道本線のみならず各地で増発、あるいは寝台車の増結が行われます。
2等寝台車は3段式でベッドの幅は52㎝と、今の基準ではお世辞にも快適とはいえませんが、座れるかどうかも分からない急行の座席車の4人用のボックスシートと比べると、はるかに恵まれた設備でした。
写真は大宮鉄道博物館の20系客車のもの。
もはや列車本数の増加が難しくなっていた東海道本線において、輸送力が大きいうえ昼間も運用できる電車ではなく夜しか使えない寝台列車が増発された背景には、国民の所得水準の向上に加えて企業からの要望も強かったという事情もあります。
「夜汽車の旅情」といった感傷とは無関係に、高度経済成長を支えた企業戦士たちが出張先でしっかり仕事をするためにも、寝台車は長距離移動には必要不可欠な交通インフラだったのです。
旅行ブームの広まりで、観光団体専用列車も増発
戦後世の中が落ち着いて所得も増えた結果、余暇として旅行を楽しむ国民が増えていきました。
そんな世相を反映していたのが観光団体列車です。
これは定められたルートを巡る団体旅行専用の列車で、それまでは「南紀観光」号だけでしたが、今回の改正で「九州観光」「信野・日光観光」「東北・北海道観光」号が新設されました。
東京を起点にして九州や北海道が行き先として現れてくるあたりに、旅行者数の増加と旅行の大型化が伺えます。
例えば「九州観光」の下り列車は朝東京を発って、翌朝に終着の大分または長崎に到着。
上りの始発駅出発は昼過ぎで、翌日夕方前に東京に着くダイヤでした。
普通の人は海外旅行に行けなかった時代、片道の移動だけで24時間もかける九州旅行は最高の贅沢だったのかもしれません。
時刻表が語る高度経済成長期
1960年代初頭に白黒からカラーになったのはテレビだけではありません。
それまでの黒い蒸気機関車と茶色の客車に代わって登場した、「国鉄色」と呼ばれる赤とクリーム色の電車や気動車は、陸の王者、鉄道が近代化された姿でした。
特に裏日本と呼ばれた日本海側や北海道の人にとって、自分たちの地域に特急列車がやって来た喜びは相当なものだったのでしょう。
もちろん今と比べれば遅く不便なダイヤではありますが、急激な成長・変化に戸惑いながらも輸送力増強やサービス向上に邁進していた鉄道は、高度経済成長期を生きる人々の姿そのものでした。
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