【2泊の夜行も】鉄道黄金時代1950年代の時刻表、東京発九州行き客車急行の世界

時刻表深読み

戦後10年を過ぎた1950年代中盤。
新幹線や飛行機はもちろん、「ブルートレイン」と呼ばれた寝台特急さえもまだありませんでした。
この時代東京・九州間を走った急行列車たちは、そのスケールの大きさと編成の多様さにおいて日本の鉄道史上屈指の存在であったといえましょう。

それでは、1956年12月の時刻表をもとに、客車急行の世界へとご案内します。
当時の時代背景は

  • 高度経済成長期の序盤。
    経済白書が「もはや戦後ではない」と宣言したように、国民経済はようやく安定軌道に乗った。
  • 道路は未整備で自家用車普及率は統計無し(5年後にようやく3%台)
    また民間航空機の黎明期だが、一般の国民には無縁の存在。
  • 今回のダイヤ改正で東海道本線が全線電化された。
    それ以外の区間ではまだ蒸気機関車が健在だった。
  • 特急列車は全国でも5本のみ。鉄道の主役は急行列車。
  • 2年後に初めて電車(機関車牽引でない)特急とブルートレインが登場する。

戦後の混乱から抜け出し、経済は順調に成長して国民が豊かになっていきました。
中長距離輸送を一手に引き受けていた急行列車は、旅客数は急増する一方で居住性の改善も求められていたのです。

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東京からの所要時間は30時間以上

2泊3日の急行「さつま」

早速、当時の東京発九州行きの急行列車のダイヤを抜粋してご覧に入れます。
東京発車時刻が早い順から記載しています。

列車名東京発大阪着博多(小倉)着終着備考
阿蘇10001910(632)熊本1035筑豊本線経由
西海10301950811佐世保1106
高千穂11002028(753)西鹿児島1828大分・宮崎経由
霧島130021501013鹿児島1710
雲仙133022301059長崎1438
筑紫20307001945終着
さつま21458262223鹿児島546終点着は翌々日

距離が一番短い「筑紫」でも所要時間は約24時間、長いものでは30時間を超えます。
堂々と漢字で書かれた列車名を見ただけで、行き先・経由地が容易に分かります。
どれも九州を代表する地名・名所です。
自宅でこの表をご覧になっている皆さんは、きっと手元に焼酎を用意されていることでしょう。

沿線の人口分布と時間帯の観点で最もダイヤが良好だったのが、東京13時発の「霧島」です。
時刻表には前年の同じ月の区間別利用状況が公開されていますが、「霧島」の三等車の乗車率は全区間で100を越えて一番高く、名実ともに代表格といえる存在でした。
特に12月下旬の一部区間では200を超える数字(つまり座席数以上の立ち客がいる)を出しています。

それはともかく、表の中で最も興味深いのは、何と言っても「さつま」のダイヤでしょう。
夜中に東京を発ち、翌朝に大阪着。
日が暮れてから関門トンネルに入って夜の九州をひた走り、3日目の夜が明ける頃に終点の鹿児島に着きます。

当時の新型車両、10系客車。
軽量客車としたことで連結両数増加とスピードアップが実現した。

狭い日本にもこんな列車が走っていたのかと驚きます。
ちなみに、今の時代に「さつま」のような列車があっても、物好きな人にとっては面白いのではないかと思います。
【片道32時間2泊耐久、急行「さつま」地獄の三等車で東京・鹿児島間を往復してみた】
仰々しいタイトルとサムネイルを好むユーチューバーやブロガーがいかにもやりそうな企画です。

彼らのダイヤは、東海道線を昼行・山陽線を夜行・九州内を昼行で走る「阿蘇」から「雲仙」と、東海道線を夜行・山陽線を昼行で走る「筑紫」と「さつま」の2パターンに大別されます。
つまり東京・九州間のみならず、東京・大阪間や大阪・博多間などの区間利用にも配慮した多目的列車だったのです。
人口と産業が集中する太平洋ベルトは優等列車が行き交う華の街道でした。

この時代の主力電気機関車EF58
時刻表の表紙も飾っている

特急列車はまだ僅か

本記事では急行列車をメインで取り上げています。
その理由はまだ急行が圧倒的に主役で、特急は極めて限られた存在だったからです。

当時運転されている特急は全国でもたったの5本。
東京・大阪間の「さくら」「つばめ」「はと」、大阪・博多間の「かもめ」、そして東京・博多間の夜行「あさかぜ」です。
「さくら」は不定期便だったので、定期列車に限ると4種類しかありません。

なお、本改正で登場した「あさかぜ」は、この時はまだ俗に言う「ブルートレイン」ではなく、寄せ集めの客車が使われていました。
「あさかぜ」が「走るホテル」と呼ばれる20系客車になり、そして特急列車がついに東京以北(東京・青森間「はつかり」)でも走り始めるのは2年後です。

元祖ブルートレイン
大宮の鉄道博物館の20系
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鉄道黄金期ならではの多様な編成

三等級制の末期

記事の後半では列車の編成内容を見ていきたいと思います。
その前に、まずは当時の等級制について説明しておきましょう。

戦後しばらくの間、国鉄では三等級制が採用されていました。
今風に表現すると、三等車=普通車、二等車=グリーン車、一等車=グランクラスとなります。
現代では乗車券と特急券にグリーン料金を追加で払えばグリーン車に乗れますが、等級制の時代(1969年まで)は乗車券や急行料金もそれぞれの等級で異なっていました。
普通列車のグリーン車に青春18きっぷでも乗れる今とは違って一・二等車の格式は高く、これは階級社会の名残でもありました。

旧一等寝台車
碓氷峠鉄道文化むらのマイネ40

1956年でもまだ三等級制でしたが、一等車(展望車)は特急のみに連結され、急行列車は二・三等のみでした。
そして1960年に二等級制に移行し、旧三等車が二等車(後の普通車)に、旧二等車が一等車(後のグリーン車)になりました。
しかしそれはあくまで制度上の話であって、旧一等寝台車が二等寝台AまたはBを名乗り、旧二等寝台車の二等寝台Cと区別する形で残されました。
また座席車に関しても、二等車の上をいく特別二等車があり、これは一等車座席車の代わりと言えなくもありません。

堂々たる完全セットの編成

九州行き長距離客車急行のスケール感はそのダイヤだけにとどまりません。
多目的列車に相応しい多様な編成も見所です。
ここでは2泊3日で走った「さつま」を例に見てみましょう。

号車③④⑧~⑫
設備荷物車郵便車2寝AB(旧1寝)2寝C・2座特2座2座食堂車3寝3座
①,④⑤⑥,⑪⑫号車は博多まで

寝台車は旧一等・二等・三等を連結し、座席車も三等を中心に二等、そして特別二等、さらには食堂車も揃えています。
荷物車は今の宅配便のような小口荷物輸送、郵便車は文字通り郵便配達に使われる車両です。
なお、「さつま」の旧一等寝台車(1号車)は博多止まりなので、残念ながら最上級コンパートで2泊という贅沢はできなかったようです。

それはともかく、長距離優等列車といえども、人々の生活に深く結びついた存在でした。
これぞ鉄道黄金期ならではの見事な「完全セット」編成です。

荷物車・郵便車・三等車の合造車
碓氷峠文化村むらのオハユニ61

旧一等寝台車には2人用コンパートあり

三等座席車、二等寝台車と言われても想像しづらいと思うので、各設備について説明します。
なお、以下で紹介する写真はあくまでイメージです。

まず一番安い三等座席車は4人用ボックスシートです。
この設備で一夜を過ごすのも当時では当たり前でした。
二等座席車は向かい合わせになっていない転換クロスシートです。

三等座席車
リニア鉄道館のスハ43

座席車で最も豪華な特別二等車は、現在の特急車両に通じるリクライニングシートでした。
戦後、「日本の二等車は快適性で劣るから、アメリカと同じようなものを造れ」との連合軍の命令で生まれたのが特別二等車です。
自国民を我慢させてでも外国人には「おもてなし」(=裏がある)する日本は、今も昔も変わりません。

三等寝台車はベッド幅52㎝の3段ベッドです。
当時の日本人は今よりも体格が小さかったとはいえ、やはり窮屈ではあります。
また、二等寝台車Cはレール方向に二段ベッドが通路を挟んで左右に並んでいました。

三等寝台車の三段ベッド
大宮の鉄道博物館の20系

旧一等寝台車のうち二等寝台車BはCと似たようなレイアウトでしたが、内装が豪華で冷房付きでした。
つまり、二等寝台以下の設備では冷房がなかったのです。

二等寝台車
ふれあいランド岩泉の25形

最上級の2等Aは二段ベッドのあるコンパートメントです。
内田百閒の「第一阿房列車」には、1951年の急行「筑紫」の「一等コムパアト」に乗った時の様子が収録されています。
抜粋・要約すると

腰掛が後で寝台になる座席しかないが、それだとお供の「ヒマラヤ山系」と二人同じ方向で並び「気違いが養生している様な事になる」から、ボイに頼んで木箱に敷物を重ねた腰掛を用意してもらった。
片隅の洗面台に蓋をしたのをテエブル代わりにして晩酌をするも、お酒のペースが速過ぎて足りないので、ボイを呼んで途中の熱海駅で買ってこさせた。(「鹿児島阿房列車・前章」より)

とあります。
戦前の香りを残す夜汽車の旅模様です。

東京から九州までどれくらい費用がかかったか?

最後に気になる(?)費用について見てみましょう。
東京・博多間を例に、各設備の合計金額を比較します。

設備3座3寝2座特2座2寝C2寝B2寝A
料金1,7902,7504,3004,9005,8606,4607,060
3等乗車券は1,290円、2等乗車券は3,100円、等級に応じてさらに追加料金がかかる。
寝台は下段の料金で計算。

ちなみに食堂車のコーヒーが50円、昼の定食が200円~でした。
当時の都市部の勤労者世帯の平均年収は約40万円。
よって、これらの数字を20倍くらいにすると現代の感覚に近くなります。
実際の物価水準は今の10分の1よりも高いので、そのあたりのギャップが購買力の差として表れています。

旧型客車+蒸気機関車が当時の標準的な列車スタイルだった
卯原内交通公園にて

ところで、この時代の羽田空港から福岡の板付空港までの航空運賃はなんと12,600円
まだ国内線にジェット機が就航しておらず、所要時間は最短でも3時間半でした。
今ならLCCを利用すればこの半額以下で九州に行けます。

国鉄の三等運賃の実に10倍で、いかに航空機が一般人とは程遠かったかが分かります。
ネタバレを防ぐため詳しくは説明しませんが、この翌年から連載が始まった松本清張の「点と線」を読めば納得できるでしょう。

ちなみに、東京から大阪まで特急の一等展望車に乗ると6,320円で、これは同区間の航空運賃とほぼ同額です。
一等車が廃止された背景には、階級制の希薄化以外にも航空機の登場がありました。
逆に言うと、航空機を利用できたのは一等車に乗っていた特権階級くらいでした。

一等展望室の車内。「辛気臭い」と利用客からは評判が悪かった
大宮の鉄道博物館のマイテ39
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社会の縮図たる陸の王者

列車のスピードや寝台車の快適さという観点では、客車急行たちよりも今の「サンライズ出雲・瀬戸」の方がはるかに上回っています。
しかし、東京から主要都市を経て九州の各地に至るまで、それも多様なニーズを一手に引き受けたダイナミックな姿は、まさに鉄道が「陸の王者」と呼ばれていた時代の社会の縮図でした。
私には彼らが、戦前の階級社会と戦後の民主化・大衆化社会が混じり合った当時の世相を表現しているように思えます。

やがて電車特急や新幹線が中距離(500㎞程度)輸送を担うようになると、長距離(1000㎞程度)輸送に特化した寝台列車、つまりブルートレインが主役となり、1960年代~70年代にかけて全盛期を迎えるのです。

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