【ひかりライン】新幹線博多開業の光と影、1975年3月のダイヤ改正

時刻表深読み

1964年の東京~新大阪開業、その後1972年の岡山延伸を経て、東海道・山陽新幹線が関門海峡を越えて博多まで全通したのは1975年3月です。
これによって日本経済の大動脈である太平洋ベルトが太いパイプで結ばれました。
当時の時刻表から、新幹線博多開業がもたらした変化を探っていきます。

この頃の時代背景は

  • 1973年のオイルショックをきっかけに高度経済成長期が終わり、日本経済は低成長期へと移行。
  • 東京~博多の新幹線普通車指定席の費用は8,710円、ライバルとなる航空機は19,500円。
  • 国鉄の財政が悪化の一途をたどる中、労使関係の対立も顕著となる。
  • 新幹線の騒音・振動が公害として社会問題化し、名古屋で沿線住民から訴訟を起こされる(後に和解)。

以上からも分かる通り、この時代は高度経済成長期には見過ごされてきた近代化・工業化の矛盾に、人々が目を向け始めた時期でした。
そして鉄道にとっては、総需要が抑制される中で、自動車の急速な普及と航空機の大衆化という現実を突きつけられることになるのです。

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ひかりライン誕生

それまで6時間かかっていた岡山~博多は、最速の「ひかり」で2時間50分弱で結ばれるようになりました。
実際には開通した一部の区間で減速運転を余儀なくされたため、やや不本意なスピードではあったものの、幹線にしてはカーブが多かった山陽本線に対して、距離も短縮された新幹線の開業効果は非常に大きなものでした。
そして、前回の1972年3月の岡山開業から僅か3年のうちに、400㎞程度の新規開業にこぎつけるあたり、近年の整備新幹線とは比べ物にならないくらいの国家プロジェクトであることが感じられます。

下りを例に、東海道・山陽新幹線の一般的なパターンダイヤを示します。

東京駅発車時刻(分)種別行き先山陽新幹線での停車駅備考
00ひかり博多岡山・広島・小倉最速列車
12ひかり(主に)新大阪新神戸・姫路・岡山以遠各駅行き先は多種
16こだま新大阪
24ひかり岡山各駅
28こだま新大阪不定期、または設定なしの時間帯多し
40こだま新大阪
48ひかり博多新神戸・姫路・岡山以遠各駅
52こだま新大阪不定期、または設定なしの時間帯多し
「ひかり」の東海道新幹線内の停車駅は全て名古屋・京都。
それぞれの時間帯で表中の全ての列車が運転されていたわけではない。

岡山~博多は速達型と各駅停車型の「ひかり」が1時間に1本ずつ運転されるのみでした。
岡山開業の時もそうでしたが、新規開業区間の需要の細さが明確になっています。
現在の山陽新幹線は東京発の16両編成の「のぞみ」「ひかり」以外にも、新大阪発8両の「みずほ」「さくら」が運転されて東海道新幹線にはない独自色を打ち出していますが、この頃の山陽新幹線は「東海道新幹線の先細りする延長線」くらいの位置づけだったことが分かります。

東京~博多を最速で走る「ひかり」(「のぞみ」が登場するのは1990年代初頭)の所要時間は6時間56分でした。
現在の「のぞみ」より停車駅が多いにもかかわらず、2時間以上長い時間を要しています。
それでも東京・福岡間の輸送シェアは6割程度(現在は1割未満)だったので、LCCが就航する今よりも航空機の敷居がはるかに高かったことが窺われます。

最初の東京~新大阪開業から10年、そして営業距離が大きく延びただけに新型車両の投入を期待したいところでしたが、車両面では相変わらず初代の0系が大量に増備されていきました。
東海道・山陽新幹線に0系の後継である100系が登場するのは、さらに10年も経った1985年のことです。

四国鉄道文化館にて、初代0系新幹線。

社会が激動の変化を経験した20年間でずっと同じ車両が1枚看板で活躍するのは、現在では考えられない(民営化後は10年弱毎に新型車両が登場している)事態ですが、当時の国鉄は財政悪化に加えて労使紛争が深刻だったので、新車の開発が停滞していたという事情があります。

大宮の鉄道博物館にて、0系普通車の車内。
偉大な車両だったが、時代に即した水準のアコモではなかった。

なお、記念すべき開業日ですが、東京~博多の「ひかり」以外は空席が目立ったと言われています。
新聞でも「不安と期待乗せて」という見出しで開業のニュースが伝えられました(「朝日新聞」1975年3月10日夕刊)。
歓喜一色だった1964年の東海道新幹線開業時とは異なり、経済成長の鈍化や環境問題への意識の高まりといった変化が、手放しでは喜べない状況を作りだしていたのでしょう。
ましてや、2020年の東京オリンピックは仮にコロナウイルスが存在しなくとも、1964年の時ほどありがたがられることはなかったに違いありません。

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在来線:激減した山陽本線の特急・急行列車

昼行優等列車は全て廃止

時刻表の山陽本線の紙面を賑わせていた昼間の特急33往復と急行14往復は、今回の改正を機に全廃されました。
それまでの新幹線開業時のダイヤ改正では並行在来線の優等列車も一部は残存していたのですが、今回は強引に新幹線に旅客を誘導してきたあたりに、累積赤字が増え続ける国鉄の増収への執着というか焦りを感じます。

京都鉄道博物館にて、583系(手前)と485系(奥)。
共に関西~九州の特急として活躍した。

代わって目立つようになったのが快速列車で、特に岡山~福山や広島~徳山では1時間毎に分かりやすいダイヤで設定されています。
新幹線開業後の在来線は、短・中距離の地域輸送に徹するべく普通・快速電車の利便性を高めるという方式は、国鉄民営化後にますます顕著になります。

また岡山開業の時と同様に、新幹線と連絡した陰陽連絡線の機能強化が今回も行われます。
山口線に特急「おき」が小郡(現・新山口)~米子・鳥取に計3往復誕生したのもこの時です。
鉄道以外でも国鉄バスが小郡~東萩や広島~浜田を中心に、新幹線に接続する形で運転を開始しました。
関西圏はもちろん、北九州地区からも山陰西部へ向かう山陰本線経由の特急「まつかぜ」急行「さんべ」が運転されていましたが、これらに代わって新幹線と陰陽連絡列車・バスの乗り継ぎが次第にメインルートとなっていきます。

夜行列車は寝台特急よりも急行の方が影響大

前年の1974年4月以来、九州行き(下関含む)の寝台特急は、東京・名古屋発が8往復、関西・岡山発に至っては17往復が運転されて全盛期を築き上げていました。
当然ながら新幹線博多開業によって、寝台特急もその数を減らさざるを得ませんでしたが、東京~博多の「あさかぜ」1往復と関西発の4往復が廃止されるにとどまります。
新幹線とはいえ、東京から博多まで7時間、大阪からも博多より先の九州各地へは6時間以上かかることが多く、B寝台なら新幹線よりも安い寝台特急の利用価値はまだ高かったのです。

ところで、夜行列車には寝台特急だけでなく急行列車も運転されていました。
1970年代に入る頃には主役は寝台特急になっていましたが、自由席の座席車が連結された夜行急行も周遊券を利用するエコノミー層を中心にそれなりの支持を集めていました。
しかし、11往復あった関西発の急行は一気に3往復にまで減らされ、編成も全車座席指定となりました。

九州では特急も島内輸送に特化

それまで九州を走る昼行特急は、関西や岡山からはるばるやって来た長距離列車が中心でした。
しかし前節で述べた通り、そういった列車が廃止されたことで、九州島内で完結する「有明」(博多~西鹿児島)や「にちりん」(博多~宮崎)が増発され、小倉や博多で新幹線と接続する九州の特急ネットワークが築かれたのです。
長崎本線がまだ電化されていなかったので、長崎・佐世保方面へは気動車急行による運行となりましたが、翌年に電化が完了して電車特急「かもめ」(博多~長崎)や「みどり」(博多~佐世保)が運転を開始します。

九州鉄道記念館の電車特急485系

この当時特急が運転されていた線区は幹線ばかりですが、例外として博多から肥薩線経由で宮崎まで走る気動車特急の「おおよど」がありました。
現在災害のために不通となっている肥薩線は、スイッチバックやループ線などに代表される観光路線として認識されていますが、高速道路が整備される以前は博多・熊本~宮崎を結ぶ重要なルートでした。
実際、「おおよど」のダイヤは博多8時25分発、宮崎14時27分着で、日豊本線経由の電車特急「にちりん」(同じ時間帯の「にちりん2号」は博多7時39分発、宮崎14時14分着)と比べて所要時間が短かったのです。

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高速鉄道で結ばれた太平洋ベルト

東京から北九州に至る1,000㎞にも及ぶ高速鉄道が完成したことで、日本の中枢部である太平洋ベルトはさらに機能的になり、それに付随する鉄道網も大きく変わりました。
これは記念すべき快挙ではあったものの、皮肉なことに東海道・山陽新幹線の輸送人員はこの年をピークに減少し、その後もしばらく停滞します。
外部環境の変化に加え、1976年より国鉄は数十パーセントの大幅な値上げを毎年行ったことで、航空機との価格差が急速に縮まったことも要因として挙げられます。
そうした悪材料は3年半後の1978年10月の「ゴーサントオのダイヤ改正」でいよいよ明白になります。

株価アナリストだったら「好材料出尽くしにより上値が重い」という表現をしたことでしょう。
新幹線博多開業は日本の鉄道における一つの大きな区切りであり、新たな困難な時代の予告編でもあったのです。



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