肥薩線は南九州の八代駅から隼人駅を結ぶ、その風光明媚さで知られる路線です。
今では観光列車も何種類か運転されて、九州でも屈指の観光鉄道といってもよいでしょう。
また、肥薩線は車窓の綺麗さだけではなく、その歴史的背景にも興味深いものがあります。
隼人から八代までの旅行の様子を紹介します。
なおこの時は数日のゲリラ豪雨のため、前日まで終日全線運転見合わせ、という状況でしたが、幸いにも予定通りに乗りとおすことができました。
肥薩線の隼人から八代までの旅行記
地味だが趣のある隼人~吉松
隼人駅は駅舎は竹で覆われたデザインですが、ホームには国鉄時代の雰囲気が残っています。
ここからディーゼルカーに乗って肥薩線の旅が始まります。
隼人~吉松間は比較的地味な区間ではありますが、沿線に古風な趣のある駅がいくつかあります。
特に有名なのが嘉例川駅。また、大隅横川駅も魅力的です。
吉松駅の一つ手前の栗野駅には、廃止された山野線の線路跡が残っていました。
かつての交通の要所、吉松駅で途中下車
後で詳しく述べますが、吉松駅は昔交通の要所としての機能を果たしていました。
駅構内はとても広く、華やかな往時の面影が偲ばれます。
駅前には吉松駅や吉都線開業の百周年記念碑が建ち、SLが展示されている小さな公園もあります。
観光SL会館ではお土産や軽食・コーヒーを買うことができるほか、時間帯によっては食事もできるようです。
すぐそばに吉松駅の歴史や昔使われていた用具を展示した資料館があります。営業時間内でも鍵が閉まっている場合は、隣のSL会館の店員さんに見学したい旨伝えれば開けてもらえます。
吉松~人吉間はスイッチバックとループ線
スイッチバックもループ線も勾配緩和の工夫
吉松~人吉間は肥薩線のハイライトといってよいでしょう。
途中の真幸駅と大畑駅ではスイッチバックを演じ、特に大畑駅はそれに加えて、ループ線の途中にあるという非常に珍しい構造です。
肥薩線の最高地点(標高536m)である矢岳駅から大畑駅に駆け降りる途中のループ線から、スイッチバック式の大畑駅を眺めることができます。
なお、これらの途中駅ですが、周りに人家も少なく利用客もほぼいないと思われます。
なぜスイッチバックしてもまでこのような駅ができたのか?
それはおそらく、かつて幹線だったこの区間で列車の行き違いをし、「矢岳越え」と呼ばれる急勾配に備えて、蒸気機関車に水を飲ませるためでしょう。
土木技術が発達しておらず、蒸気機関車が主役だった明治時代、勾配を緩和するための創意工夫です。
日本三大車窓
真幸駅と矢岳駅の間に、日本三大車窓の一つに数えられる絶景スポットがあります。
私が訪れたときは視界がそれほど良くなかったのですが、日によってははるか遠くの桜島も見えるそうです。
人吉駅には駅弁の立ち売りがある
人吉駅には今ではほとんど見られなくなった、駅弁の立ち売りがあります。
栗めしと鮎ずし、どちらにしようか迷いましたが、これから球磨川に沿って走ることを考えて、より演出道具として効果的な鮎ずしにしました。
なお、人吉駅も鉄道の要所で、SLの転車台が構内にあります。
「SL人吉」という列車が運転される日もあるので、現役の施設です。
球磨川に沿って八代を目指す
急勾配区間を超えた列車は、今度は急曲線の連続する区間を走ります。
人吉~八代間の魅力は何と言っても球磨川の車窓です。
途中何度か、肥薩線の都市間連絡鉄道としての役目に終止符を打たせたハイウェイが、健気に球磨川に沿って走る鉄道を嘲笑うように見下ろしてきます。
もっとも、旅を楽しむ我々乗客からすれば、ビールと弁当を味わいながら「トンネルの旅、ご苦労様です」と、優越感を覚えるのですが。
球磨川とともに赤い鉄橋の鹿児島本線の下をくぐりぬけると、終点八代駅はすぐそこです。
「いさぶろう」「しんぺい」号。指定席をとるべきか?
車内サービスや内装
私が今回吉松~人吉~八代まで乗車した「しんぺい」の車両について触れます。
「しんぺい」は上り方面、吉松→人吉を走る普通列車ですが、2本のうち、1本は人吉から熊本まで特急として走ります。
下り方面の列車名は「いさぶろう」となります。
両列車名は人吉~吉松間開通時に、鉄道関係の要職者であった山縣伊三郎と後藤新平にちなんでいます。
車内は過度な装飾を抑えたレトロな内装が特徴で、沿線にちなむ説明書きなどもあります。
観光列車らしく、途中駅でしばらく停車するほか、日本三大車窓の所でもしばらく停車したり、車掌が見どころを説明してくれます。
また車内販売があるのも嬉しい点です。
座席は指定席か自由席かどちらが良いか?
ゆったりと落ち着いて旅をしたい人は指定席にすべきです。
なぜなら、改造された車両とはいえ「いさぶろう・しんぺい」はセミクロスシートのままで、自由席だとロングシートの利用となってしまうからです。
しかし、人吉~吉松間の所要時間は1時間少々。
さらに、進行方向が変わるスイッチバックや途中駅見学、日本三大車窓のパノラマ堪能などと、楽しむのにバタバタと忙しい区間でもあるので、アクティブに満喫したい人は自由席でも(もっと言えば座れなくても)構わないと思います。
ちなみに、人吉~吉松間3往復の全列車のうち、普通の旅行者が利用するであろう2往復はこの車両による運用です。
かつては鹿児島本線を名乗った肥薩線の歴史
南九州のメインルートだった
現在の肥薩線が開通したのは明治末期の1909年。海側を走る現・鹿児島本線より前で、それまでは現・肥薩線が鹿児島本線を名乗っていました。
また、日豊本線も都城~隼人間が開通しておらず、1923年に小倉~宮崎~吉松を以て日豊本線としていました。
つまり、吉松駅は九州の二大縦貫幹線の交差点だったことになります。
鉄道の要所として今なお誇らしげに存在しているのは、そのような歴史があるためでしょう。
結局1927年には現・鹿児島本線全通、そして1932年には都城~隼人間が開通して日豊本線は現在の姿になり(つまり隼人~鹿児島間は肥薩線から日豊本線に組み入れられた)、現在に至ります。
関連記事:鹿児島本線(含・肥薩おれんじ鉄道)全線の旅【車窓・駅弁・見所情報】
日豊本線の旅指南【車窓・駅弁・その他の見所案内】
ローカル線転落後も健闘するが、高速道路の開通で衰退
こうしてローカル線に成り下がった肥薩線ですが、線形の悪さ・スイッチバックといったハンディキャップを抱えながらも、急行「えびの」が博多・熊本~宮崎方面への都市間輸送で健闘しました。
しかし、高速道路の開通によりこの区間の移動手段はバス・乗用車に取って代わられ、いよいよ衰退の道を歩むことになります。
そんな状況にあっても、輸送効率の悪さを逆手に取った鉄道旅行の魅力を活かして、観光鉄道として活躍している今現在であります。
複雑な鉄道発展の歴史
さて、ここで疑問が湧いてきます。
鹿児島本線を開通させるにあたって、なぜ海側の現・鹿児島本線(というか肥薩おれんじ鉄道)ではなく、敢えてこんな急な山越えをする肥薩線のルートを選んだのでしょうか?
定かではありませんが、海岸線を忌避する旧・陸軍の意向が働いたといわれています。
純粋な輸送面の需要だけでなく、軍事的要請も関わっているのが、鉄道の発展の歴史の興味深い一面です。
まとめ
今や観光名所となったスイッチバックやループ線も、南九州へ鉄道を通すために、建設者たちが苦心を重ねながら山に挑んだ立派な証です。
この雄大な肥薩線に乗っていて感じるのは、先人たちが編んできた鉄道網を赤字になったからといって安易に廃止させてはならない、ということです。
線路の脇には復旧直後のためか、保線員と思しき人達がしばしば見られた。鉄道の建設・運行に携わる人の誇りは、明治時代も現在も変わらないのだろう。
当ブログ管理人masaki 2019年7月5日の日記より抜粋