1978年10月2日、国鉄で「ゴーサントオ」(昭和53年10月)と呼ばれるダイヤ改正が行われました。
白紙ダイヤ改正といわれる割には主要プロジェクトが紀勢本線電化のみだったゴーサントオが、鉄道史に記憶される理由はその象徴的な意味合いです。
今改正の全般的な傾向は、①特急が増えてそれ以上に急行が減った、②一部の特急列車の所要時間が延びた、③編成の合理化が進み簡素なものになった、ことが挙げられます。
つまり、それまで拡大傾向にあったダイヤ改正が、後ろ向きな内容も含むようになったのが特徴です。
なお、他の重要な要素に貨物列車の大幅削減がありますが、時刻表からは分からないため本記事では省略します。
当時の時代背景は
- 1973年の第一次石油危機をきっかけに高度経済成長は終わり、低成長時代を迎える。
- 東京・大阪~九州・北海道など長距離輸送は航空機が一般的になる。一方、航空網未整備の地域もあり、東京~本州内であれば鉄道も健闘していた。なお、東北・上越新幹線は未開業。
- 昭和30年代に登場し一世を風靡した「新性能車両」たちが第一線から退き始め、新型車両への置き換えが進められる。
- 本数では急行の方が特急より多いが、特急の大衆化によりその差が縮まる。
- 国鉄内部では労使関係が悪化し、赤字解消のために大幅な値上げも敢行されたために、国鉄離れが進む。
これまで高度経済成長による全体のパイの拡大や、新幹線の延伸といったイベントに隠されてきた内外の悪材料(景気悪化・輸送シェア減少・国鉄の財政悪化)が、いよいよ可視化されたのがゴーサントオでした。
特急は増発するも所要時間は延びる
いくつかの特急列車をピックアップして、その変化を表にしてみました。
列車名(主な区間) | 本数の変化 | およその所要時間の変化 | 備考 |
はつかり(上野~青森) | 10→12 | 8時間15分~30分→8時間45分~9時間 | 盛岡行き「やまびこ」1往復を吸収 自由席を新設 |
ひばり(上野~仙台) | 26→30 | 4時間弱→4時間15分 | |
とき(上野~新潟) | 26→28 | 4時間弱→4時間10分 | |
ひたち(上野~平・仙台) | 16→22 | 2時間半(平)、4時間40分(仙台)のまま | 平は現・いわき 本数増は全て急行格上げ |
雷鳥(大阪~金沢・富山・新潟) | 24→32 | 3時間10分(金沢)、4時間(富山)のまま | 急行格上げと「北越」吸収で、在来線特急最大勢力に |
くろしお(天王寺~白浜・新宮) | 12→14 | 2時間30分→2時間5分(白浜) | 振り子電車投入 白浜以降はさほど時間は変わらず |
明星(新大阪~博多・西鹿児島) | 14→8 | 西鹿児島まで14時間半~15時間のまま | 寝台特急 改正前は「あかつき」との併結もあり |
比較対象は1976年10月
増える特急、減る急行
今回の改正では東日本を中心に特急列車の増発が行われました。
そして、昼間の特急列車全てに2~5両の自由席がつき、特急列車がより身近なものになります。
もっとも備考欄に記した通り、本数増加には急行列車からの格上げや、同じ線区を走る別の列車名を統合した例もあるので、全てが純粋な増発というわけではありません。
ちなみに、今改正で特急は36本増発されて計582本に、急行は特急増加分を上回る57本が削減されて計1012本になりました。
また、「数自慢、キッカリ発車、自由席」が売り文句の「エル特急」には、新たに「はつかり」をはじめ、3往復しかない「つばさ」(上野~秋田)や「やまばと」(上野~山形)などもその仲間入りをしました。
1972年10月に特急大衆化の象徴として登場し、やがてその区分の意義を問われる状態で2018年に消滅したエル特急ですが、既にこの時点で曖昧な存在だったようです。
前代未聞の特急スピードダウン
特急増発・紀勢本線電化といった明るい話題の一方で、一部の列車の所要時間が延びていることが分かります。
こうした事態は戦時・戦後の混乱期を除いてそれまで例がなく、その意味でゴーサントオは「画期的な」ダイヤ改正でした。
上の表の「くろしお」だけは非力なディーゼルカーからカーブでも高速走行できる振り子式電車381系になったことで、大幅にスピードアップしています。
ちなみに、現在はほとんどの「くろしお」が車体傾斜しない通常の車両となり、所要時間もこの時代と同程度~やや遅いのは実に嘆かわしいことです。
当時の国鉄では労使関係が悪化しており、機械の導入もできずに保線の作業効率が落ちていたため、安定輸送の名目でスピードダウンした事情があるようです。
また、現在では考えられないことですが、東北本線(宇都宮まで)など各地の幹線では、昼間に1時間の列車の空白時間をつくってその間にも保守作業をしていました。
新幹線開業前で特急・急行が多く走る首都圏で、よくもこれほど無神経なことができたものです。
世代交代が促進した編成簡素化
ダイヤではなく編成表からは、列車編成が簡素化されたことが分かります。
「とき」など利用率の高い列車を中心に食堂車の営業が終了となりました。
また、グリーン車が編成当たり2両から1両に減っているケースも散見されます。
これには車両の世代交代も関係しています。
この頃はまだ食堂車付きの昼行特急が多かったですが、1970年代前半以降に登場した新型車両(183系・381系)には、はじめから食堂車がありませんでした。
また近距離輸送にも対応できるよう設計されており、それまでの特別急行の貫禄のある181系とは異なるコンセプトの車両でした。
電車特急全盛期を築いた181系から新型183系への置き換えは、当時の特急列車の役割の変化を象徴する世代交代でした。
大阪~九州の寝台特急は減便
軒並み本数が増加した特急にあって、大阪~九州の寝台特急は減便されています。
これらの列車は3年前の山陽新幹線博多開業までが全盛期で、それ以降は新幹線がパートナーからライバルへと関係が変わってしまいました。
それに加え、1976年以降の国鉄の急激な値上げの結果、大阪~西鹿児島までの2段寝台利用時の費用は、1976年10月では7,510円だったのが78年10月にはなんと14,800円になりました。
同区間の航空運賃は13,600円と逆転してしまい、寝台特急の競争力は大きく下がりました。
なお、東京~東北各地の夜行列車には大きな変化はありません。
新幹線がまだなく、九州と違って東京からもあまりジェット機が就航していなかったことから、夜行列車利用の減少が抑えられていたものと思われます。
列車愛称番号変更と絵入りヘッドマークが登場
ゴーサントオではダイヤ改正の中身以外の部分でも大きな変化が見られました。
一つ目は列車愛称番号が新幹線と同様に、上り列車が偶数、下り列車が奇数の番号が付くようになります。
つまり、例えば「あずさ2号」には新宿発(下り)と新宿着(上り)の両方があったのが、今改正より新宿行きのみとなりました。
というわけで、前年ヒットした曲の歌詞で有名になった「8時ちょうどのあずさ2号」は消滅しました。
当然、それまでの新宿発2号はこの日より3号を名乗ります。
もう一つの変化は、文字だけだった電車特急のヘッドマークが、愛称名ごとにデザインされた絵入りになったことです。
これらは秀逸なデザインも多く、当時から人気を博し、各種の関連グッズの売れ行きも好調だったそうです。
鉄道ファンでなくても明るい話題ですが、国鉄もこうした気の利いたサービスをもっと全般的に行ってくれていたらと悔やまれます。
記憶に残るダイヤ改正
冒頭に述べた通り、ゴーサントオは改正規模では前回の1975年3月ほどのインパクトはありませんでしたが、右肩上がりのダイヤ改正の終焉という意味で象徴的でした。
この時期には前の章で触れたあずさ2号以外にも、「いい日旅立ち」「思えば遠くに来たもんだ」「津軽海峡冬景色」といった、今でも親しまれる曲が生み出されました。
明治時代の「鉄道唱歌」や新幹線開業直後の「はしれちょうとっきゅう」が鉄道の速さ・力強さを讃えたのとは対照的に、これらの歌謡曲は人々の回想・感傷を表現しています。
つまり、鉄道が近代化を推し進める「文明」から、ノスタルジーの対象たる「文化」として認識されだしたのです。
今までの時刻表の表紙は有名なビュースポットを列車が走る写真でしたが、今回は夏の上野駅で撮影した女の子の写真になりました。
歴史の転換点としてのゴーサントオのダイヤ改正の意義は、既にページをめくる前から読み取ることができたのです。
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