2026年6月末日、日本・韓国両国の新幹線と下関・釜山間のフェリーを乗り継いで、東京発ソウル行き「日韓擬似国際列車」の旅に出かけた。
日本が朝鮮や中国に進出していた1940年の時刻表を基に、現在の最新型高速列車を当時の看板列車に見立てることで、戦前の鉄道黄金時代の海外渡航を今日に蘇らせようとする試みである。

本記事は第3回。
戦前の関釜連絡船(下関~釜山)に見立てた関釜フェリーに乗船して、下関港よりいよいよ韓国の釜山を目指す。
韓国の船舶、星希(ソンヒ)
下関港国際ターミナルは下関駅から徒歩5分ほど。
駅前からターミナルまで続くペデストリアンデッキを、かつての連絡船乗り場への通路だと思って進んでいこう。
窓口で出国税などの諸税を現金で支払ってチケットをもらう。
その後、私は旧下関駅付近の旧跡を辿った。(第2回の内容)

出航時刻は19時45分だが、乗船時間は18時5分~18時20分までと早かった。
列に並び始めてから出国審査を経て実際に乗船するまで15分以上かかるから、少なくとも18時20分までにはターミナルビルの乗船口に来ておけ、という意味なのだろう。
私が見渡した感じでは、列に並んでいる乗客の7~8割は韓国のパスポートを持っていた。

いよいよ乗船。
関釜フェリーでは日本側の船舶と韓国側の船舶が交代で運用されているが、私が乗船した船は韓国側の星希(SEONGHEE)だった。
入口に掲げられている行き先表示は、素っ気ないフォントで漢字・ハングル・アルファベットを並べた簡潔に徹したもので、まるで日本の地方の渡し舟のようなローカルさを醸し出していていとおしい。

釜山港到着予定時刻は翌朝8時なので所要時間は約12時間だ。
なお1940年の時刻表を見ると、下関~釜山間の連絡船の所要時間は7時間半。
今のフェリーが当時の客船より大幅に性能が低いとは考えづらいので、私は前から不思議に思っていた。
これは翌朝分かったのだが、船が実際に釜山に入港するのは8時よりずっと早いのだ。
その理由というのが、港の入国管理業務が始まる時間まで港内で待機するという悠長なものだった。(下関行きも同様)
いずれにせよ、当時の国内航路が国際航路になったことを象徴する所要時間の変化である。
2等船室は雑魚寝部屋
フェリーの乗務員は韓国人だったが、そのほとんどが日本語を話した。
予約していた一番安い2等船室は定員10人程度の雑魚寝タイプの部屋で、男女別に分けられているようだ。
7,8人の乗客のうち私以外は韓国人だった。
「アンタ、韓国来るの何回目?」
部屋で一番年長らしい気の良い男性が日本語で話しかけてくれた。
下着同然のシャツに半ズボン姿の彼は、大阪や小倉で何年も暮らしていたという。
「初めてです。東京から新幹線で来て、釜山からも高速鉄道でソウルまで行きます。」
「えっ、敢えて飛行機じゃなくて?旅慣れてるんだね。」
「ええまあ。ところで、お父さんはご旅行ですか?」
「いや、今朝この船で来て、そこに置いてあるテレビを買ってこれから帰るところ。日本のBS番組が見たいんよ。釜山なら映るからね。」
ということらしい。
さすがにNHKの集金人も韓国までは来るまい。

出港まではまだ時間があるので船内を散策した。
まずロビーのインフォメーションデスクに行って両替してもらう。
売店は韓国のコンビニといった雰囲気で、ハングル文字の書かれた飲み物・ビール・カップ麺・軽食などを売っている。
ここでは日本円の現金も使えた。
夕食はレストランで済ませたがバイキングの品数は限定的で、メインのキムチスープの具は白菜だけと、内容も簡素なものだった。


そろそろ出港だ。
甲板に出ると、目の前に下関駅前にあるシーモールの建物が見えた。
駅舎までは見えないが、擬似鉄道連絡船の船出に相応しいロケーションである。
19時45分、船が動き出した。

しばし下関のウォーターフロントに沿って西進し、関門橋の手前でUターンしてから今度は門司港エリアや北九州の工業地帯を臨む。
一瞬の緊迫感で終わってしまう飛行機の離陸よりも、船にはずっと味わい深い旅情がある。
昼間とは違って、夜の海風は肌寒いくらいだった。

売店でビールを買って1階ロビーの公共エリアで飲んだ。
Tシャツに短パン姿のスラッとした若い女性が2人、テーブルに缶ビールを6つも並べて真っ赤な顔をしている。
その隣では、座って酒を飲んでいる老人たちに対して、屈強な若者たちがペコペコと頭を下げて退去していった。
どんな状況だったのかは分からないが、日本以上に儒教の影響が強く年長者を敬う韓国らしい一コマだった。
戦前の関釜連絡船は1,2等(今のグランクラス・グリーン車)旅客と3等(普通車)旅客とで、利用する入口・ロビーが分けられていた。
今の関釜フェリーでは、等級も国籍も老若男女も問わず、乗客が同じロビーで思い思いに過ごしている。

関釜連絡船
釜山近現代歴史館にて
大らかな年配男性と冷静沈着な中年紳士
部屋に戻ると、気の良い男性が風呂に行くところだった。
「売店で買ったこのコーン茶は香ばしくて美味しいですね。」と言うと
「俺は爽健美茶の方が好きやけどなぁ。」
その会話を聞いて、私の正面にいたポロシャツ姿の中年の紳士が笑った。
彼も1990年頃からしばらく日本に住んでいて日本語が話せるらしい。
「彼から聞きましたよ。東京からソウルまで鉄道と船で行かれるそうですね?」
「ええそうなんです。しかし1990年頃といえば日本が一番豊かだった時代ですね。もう今では韓国に抜かされてしまいましたが。」
しかし彼は安易に同調しない。
「それはあくまで表面的な数字(一人当たりGDP)です。数社の半導体企業の桁違いの利益とボーナスでそうなっているだけです。経済の底力では日本には敵いません。」
経済談義をはじめとして、彼とはいろいろ話をした。
ちょうどサッカーのワールドカップで両国が敗退した時期だったので、韓国チームの監督について尋ねると
「あんなのは酷いなんてもんじゃありません。素人が見ても無茶苦茶ですよ。」
と、冷静沈着な彼もこの時ばかりは色をなして酷評した。
通路から漏れてくるロビーの歓談は既に止み、部屋の前を通り過ぎる人もまばらになっている。
私が最近日本で地震が続いている話を切り出すと、
「そういえば私が大阪にいたときに阪神大震災がありましたね。」
と彼が言う。
「本当ですか?実は私も出身が神戸の近くなんです。震度7でしたよ。」
ちょうどその時、気の良い年配男性がタオルをひらひらさせながら風呂から帰って来て
「阪神大震災の話か?俺はその時は大阪の難波やったぞ。」
彼らの関西訛りは前から気づいていたが、30年前に見ず知らずの3人がこれほど近くに住んでいたとは。
私もすっかり神戸弁丸出しで地元のことや昔話をした。
本当に私はこれから外国に行くのだろうか?
実は船内で知り合った同郷の男たちと一緒に神戸に帰っているのではないか?
そんな錯覚にとらわれながら私は眠りについた。
玄界灘の波はとても穏やかで、まるで瀬戸内海を航行しているようだった。

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