【北海道亜阿房列車】江差線と松前線を偲びながら松前半島日帰り一周旅行記

旅行記

気候・歴史・風土が本州とは全く異なる北海道。
そこは、日本人(和人)にとっての新大陸である。
そんな北海道において、南西端にある松前半島には古くから日本人が活動し、比較的和風文化の色合いが濃い地域である。
また今の北海道新幹線木古内駅を起点に、かつては江差線と松前線が走っていた。

2024年10月上旬、函館を拠点にレンタカーで江差・上ノ国・松島を巡った。
同行・運転するのは元会社の同僚、地蔵氏(「800系氏」の名でも当サイトに数回出演履歴あり)である。

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北の港町江差

朝6時半、羽田空港で同行する地蔵氏と待ち合わせた。
彼は会社の同僚だったが、本業に専念するため既に退職している。
「京急線は身動きできないくらい混んでましたよ。」と私が言うと
「私はリムジンバスで来ました。」とのこと。

地蔵氏は全日空の株主で、飛行機に乗る時は何も考えずに優待券を使う身分である。
私なんか国内線はたいていLCC、ヨーロッパに行く時も中国や中東経由だと言うと絶句していた。
というわけで今日は両者の価値観の間を取り、7時15分発の函館行きエアドゥ便を予約した。
「上級クラスは無いんですね。」と彼は不思議そうだ。

8時35分函館空港着。
たちまち北海道に来てしまった。
当初は函館まで新幹線利用を提案したのだが、所要時間が長いので却下された。
空はどんよりと曇っていて長袖でも涼しい。
関東の長すぎる夏からようやく脱出した気分になる。

早速予約したレンタカーに乗り、松前半島を反時計回りに巡る。
まずは江差を目指す。
運転は全て地蔵氏に任せる。
私が押し付けているというよりは、彼は愛車のスポーツカーを乗り回すくらい運転が好きなのである。
無料の高速道路に乗ると左手に函館湾を見る。
国道227号線を走り、峠に差し掛かると木々は微かに色づき、枝を斜め上方に突き出した松林も目立つ。
少し集落が現れると、正面に日本海が広がった時には二人とも思わず歓声をあげた。

やがて最初の目的地、江差に入った。
木の板を打ち付けた黒い粗末な建物が散見される。
地蔵氏によると昆布を干す小屋ではないかとのこと。
市内は車窓見学でほぼ済ませたが立派な商人の旧家もあり、北前船で栄えた港町らしい雰囲気は味わえた。

車を停めて開陽丸記念館を訪れた。
戊辰戦争中に稼働した旧幕府の軍艦を模した施設で、榎本武揚を中心とした開陽丸の歴史や引き上げられた遺品を展示している。

大砲のコーナーではボタンを押すと「火薬の装填はしたかァ~」などと音声が手順に従って流れる。
「照準は良いかァ~」
地蔵氏が「東京都新宿区××ビル!」と叫ぶ。
私が在籍する(そして彼も最近までいた)会社の所在地である。
最後のボタンを押すと大きな発射音が鳴り響き、いい年をした男二人が歓喜の声をあげた。

「暗夜に灯を失うがごとし 開陽丸沈没す」の言葉通り、幕府の旗艦として期待されながらも時代の荒波に翻弄され、この船は僅かな働きしかできずに沈没してしまった。
周りに工場もない海の水は綺麗に透き通り、魚が泳いでいるのがよく見える。

続いて江差駅記念モニュメントへ。
2014年に木古内・江差間が廃止されるまでここに江差駅があった。
地図で場所は確認していたが道に迷った。
見つけた駅跡は町の中心地からは離れた高台にあり、これでは利用しづらかったのではないか。
線路・駅名標と記念碑が設置され、周囲にはこじんまりとした新しい住宅地と駐車場が整備されている。
「こんなん見て喜ぶなんて、お互い変やな。」
「ここは彼女と来るところではないね。」

ひっそりと佇む何もない駅跡に満足して、海岸沿いの道を行く。
江戸時代には物資の集散地として松前藩の財政を担った江差も今やその賑わいもなく、民家の痕跡を無残にとどめた空き地が目立つ。
途中には江差線の橋梁も残っていた。

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中世の城館のある上ノ国

天の川の河口にある上ノ国かみのくに町へ。
文字通り「神がかった」地名に驚く。
勝山館跡が次の目的地である。
「館」というのは砦のような城のことで、15世紀に道南地方を平定した蠣崎かきざき氏がここを築いて居城とした。
ちょうど和人の蝦夷地の進出が活発化し、それに伴いコシャマインの戦い(1457年)に代表される和人とアイヌの争いも盛んになった時代である。

駐車場から道標に従って勝山館跡への山道を登って行く。
「15分も歩くの?」と地蔵氏が不平を言う。
坂は急で、結局彼は途中で諦めて降りてしまった。
一人になってから少し歩くと一気に視界が広がり、館のあった平原に出た。
遺跡はよく整備されていて、案内板には往時のイラストともに住居や客殿などが存在したことが説明されていた。
江差湾を見渡す眺めは大変良く、広大な敷地は「城」というよりも「都市」を思わせる。
出土品から和人とアイヌが混住していたことが分かったらしい。
近くにはガイダンス資料館もあるがこの日は休業日だった。
いずれにせよ予想以上に見ごたえのある史跡で、中世の蝦夷地の中心地までわざわざ来てよかった。

車に戻り、少し走った所にある「道の駅上ノ国もんじゅ」で休憩。
またしても大層な名前である。
海を望むレストランで「てっくい」(大型のヒラメ)の天丼を食べた。
淡白ながら味わいが良く、ボリュームもある。
外は風が強く、あいにく空は灰色、紺色の海は波立っていた。

引き続き海と山に挟まれた国道228号線をひた走る。
すれ違う車も少なく、郵便局を目印に小さな集落が現れるが、すぐに通過していしまう。
舗装が悪い部分があって、車がガクンと揺れるとカーナビが衝撃を知らせる。
「いちいちうるせえな。会社の○○さんかよ。」と地蔵氏が吐き捨てる。
やがて両側が少しずつ開けると松前町だ。
「町」と呼べる規模の集落は久々である。
相対する海も今や日本海ではなく津軽海峡で、心なしか風も弱まったように感じる。
「ほぉ。城の近くまで来ると松前藩の城下町らしい風情やんか…まあ良く見ると建物の色をそれっぽくしてるだけやけど。」
と感想を漏らすと、交差点の途中で笑わせるなと叱責された。
ともかく、一応城下町の雰囲気があるのは良い。

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日本最北、道内唯一の城下町松前

松前城は日本最後にして北海道唯一(つまり最北)の和式城郭である。
江戸時代に幕府の権力が及んだのはここが北限だったわけだ。
城は町の高台にあり、海を隔てて津軽半島が見える。
復興されたコンクリート建ての天守閣は海峡の反対側にある弘前城に似ており、内部は郷土資料館になっている。
アイヌや松前藩についての展示に地蔵氏も興味深そうな様子で、展示品についていろいろと私見を述べていた。
彼曰く、来航する船で賑わう松前城の絵巻は、港付近にいるのはアイヌらしき人が、高台にいる人間は身分の高さそうな人が描かれており、松前藩の経済的繁栄と共に当時の身分制度も映し出している、とのことであった。

江戸時代、この地を大名として治めた松前氏の元の名は、上ノ国の勝山館を築いた蠣崎氏である。
幕末期に外国船の動きが活発になると、松前藩は本格的な城の築城が許された。
そして1854年に城が完成して15年もたたぬうちに戊辰戦争が勃発し、あの榎本武揚率いる幕府軍の砲撃を受け、戦闘の末に落城するのである。
ここに、今日訪れた史跡は一本の糸で結ばれたわけだ。

松前城から津軽半島を望む

松前に来たもう一つの目的が、1988年に廃止された松前線(木古内~松前)である。
また地蔵氏を車に待機させて散策する。
松前線は松前城の下をトンネルで通っていたらしいので、受付の人に場所を教えてもらった。
果たして城内の外れに、石積みのトンネルがコンクリートで蓋をされて残っていた。
何ともちぐはぐな風景だが、それだけに趣がある。

そこから5分少々歩いて町外れの松前駅跡に至る。
ここが北海道最南端の駅だった。
ちなみに最西端は瀬棚線の瀬棚駅で、やはりこちらも廃止されている。
「松前駅」と書かれた碑が建ち、周囲には朽ち果てた観光案内所と掲示板が放置されていて、墓場そのものであった。
しかし江差駅にせよ松前駅にせよ、どうしてこんな不便な所にあるのだろうか?

松前を満喫して地蔵氏と合流。
彼もその間に寺社を巡っていたという。
お互いに思い思いの供養をしていたのだ。

津軽海峡沿いに車を走らせる。
煙突のような松前線の橋脚が並んでいるのを見つけた。
海に落ちる崖の下を通りながら進んでいく。
珍しく路線バスとすれ違った。

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青函トンネルと北海道新幹線

福島町にある青函トンネル記念館に着いた。
同じ名前の施設が青森県側にもあるので調べる時は注意しよう。
この付近の地下を青函トンネルが通っている。
世紀の大工事、青函トンネルの建設をテーマにした施設で、館内も海底トンネルをイメージしたチューブ状になっている。
建物入り口には「第二青函トンネルを実現しよう」と大きな横断幕が掲げられていた。

青函交流史から始まり、トンネル構想のきっかけとなった洞爺丸沈没の新聞記事、そして建設の経緯などを説明している。
エントランスホールや屋外には掘削に使われた機械が置かれている。
トンネル開通は35年ほど前だが、機械はそれ以上にボロボロである。
建設作業がいかに長期間で苦労の多いものであったか、それらが無言のうちに語っていた。

余談ながら、洞爺丸事故の新聞紙の別枠に岩内町の大火事の記事が載っている。
この両事件が同日に起こったことに着想を得たのが、水上勉の最高傑作「飢餓海峡」である。

函館市の温泉ホテルに向かう前に「道の駅しりうち」に寄った。
すぐそばを北海道新幹線が走っていて、展望台から線路を見ることができる。
お疲れ気味の地蔵氏を車に残して展望台に登ってみると、ここが新幹線と貨物列車の線路が分岐する地点のようだ。
しかも、本数が少ないはずの新幹線がちょうど通過する時刻だ。
あと3分で新幹線が通るぞと知らせると、彼も登ってきた。
果たして、新青森方面から新幹線が160km/hという速いとも遅いとも言えないスピードで去っていった。

道の駅の売店で「はこだてワイン」の赤ワインを買った。
青函トンネルの蔵置所で熟成させたという、我々にとっては「有難い」ワインである。

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湯の川温泉に宿泊

湯の川温泉のホテルに着いたのは17時過ぎ。
地蔵氏曰く「お手頃なホテル」らしいが、大型で設備も食事も充実していた。
和室に案内され、売店で買った「大沼ビール」で乾杯、地蔵氏の長時間運転をねぎらった。

軽く露天風呂とサウナを済ませて夕食。
刺身・イカ・カニ・アワビ・和牛などが目の前に並ぶ。
「鍋の豚肉の脂がいい仕事してるわぁ」
と地蔵氏が目を細めて言う。
地酒に続いて、フランスの白ワインのボトルを頼んだ。
テイスティングコメントを私なりに分かりやすく伝える。
「第一印象はエレガントな清純派やけど、意外とボディ感と個性があるやろ。ほら、会社の××さん覚えてるか?あんな感じや。」
「好きだね、そういう表現…」

今日は「北海道らしさ」を敢えて外して、蝦夷地における和人の史跡を辿りつつ、江差線・松前線の巡礼もすることで「亜阿房列車」の体裁を整えた。
このルートは路線バスでも周ることはできるが、当然本数が少なく時間もかかる。
レンタカーでなければこれほど充実した松前半島一周はできなかっただろう。

翌日は函館駅から特急「北斗」に乗って南千歳経由で新千歳空港へ。
空港見学をしてから羽田に帰った。
好き勝手に地蔵氏を連れ回した気もないではないが、帰りの飛行機では早くも来年の行き先について議論したから、彼も満足してくれたのだと思うことにする。








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