京都発、特急「まいづる1号」指定席の旅行記【混雑具合や舞鶴観光について】

幹線

京都駅の山陰線ホームからは城崎温泉や天橋立など、北近畿エリアの有名観光地へ向かう特急列車たちが出発します。
その中では存在感の薄い列車が、東舞鶴駅行きの特急「まいづる」です。

2024年1月初旬、「まいづる」に京都から終点の一つ前の西舞鶴まで乗車しました。
本記事では特急「まいづる」の概要や乗車記、そして舞鶴観光の魅力をご覧に入れます。

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「まいづる」には自由席もグリーン車もない

特急「まいづる」は京都駅から山陰本線の綾部駅を経て東舞鶴駅まで運転されています。
この列車は京都発の「きのさき」(城崎温泉行き)または「はしだて」(天橋立行き)と必ず併結されており、途中の綾部駅で切り離されます。

青線:「まいづる」、赤線:「はしだて」、紫線:「きのさき」の運行経路
黒点は大阪発と京都発の列車の結節点となる福知山駅
国土地理院の地図を加工して利用

2022年より全席指定制となり自由席が廃止されました。
またグリーン車は併結相手の「はしだて」「きのさき」のみに連結されているので、「まいづる」には普通車しかありません。
この編成内容からも分かる通り、「まいづる」はどちらかというと「付属商品」的な扱いです。

車両は287系という、北陸線の「サンダーバード」と関空特急「はるか」を足して2で割ったような電車が使われています。(1往復だけ京都丹後鉄道のディーゼルカー)
おっとりとした外見と同様に車内の雰囲気もどこか「女性的」で、京料理や伏見の酒を思わせます。
2011年に営業運転を開始した比較的新しい車両なので快適です。
ただし、普通車ではコンセントが車両の最前列・最後列にしかありません。

特急まいづるの車内
「まいづる」の車内
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予約:e5489のWEB早得は設定なし

特急「まいづる」の予約はJR西日本のネット予約サービスe5489で行うことができます。
e5489では列車によっては割引商品のWEB早得が設定されていますが、残念ながら「まいづる」にはありません。
なので、繁忙期以外は当日か前日に予約すればよいと思います。
運転区間は電子マネー対応なので、特急券だけの「チケットレス特急券」が便利でしょう。
シートマップから好きな座席を選ぶことができます。

ところで、京都からの距離(運賃換算キロ)は西舞鶴まで97㎞、東舞鶴まで105㎞です。
よって100㎞以内の西舞鶴で降りると特急料金を節約できます。
もっとも、次章で述べる通り観光の中心となるのは東舞鶴なので、このテクニックの有用性は大してありません。

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旅行記:土曜日でも空いていた「まいづる」

正月明けの土曜日の朝、京都駅は旅行者で混雑していました。
今回は「まいづる1号」に西舞鶴駅まで乗車します。
山陰線のホームは駅の隅のやや奥まった所にあるので注意しましょう。
他の線区からの乗り換えは少なくとも5分くらい見ておいた方がよいです。

前4両が「はしだて」、後ろ3両が「まいづる」です。
車内清掃が終わりドアが開いたのは発車5分前になってから。
コンビニで買ったホットコーヒーもすっかり冷めてしまいました。

やはりホームが遠いせいか、出発直前に駆け込んでくる人が数人いました。
8時38分に京都駅を発車。
左手は住宅街、右手にはすぐ近くに山が迫り寺があちこちに散見されます。

京都から10分程で保津峡を走ります。
先ほどまで大都市にいたことが信じられないくらいです。
この区間は新線に切り替えられたので、トンネルの僅かな合間に渓谷が見えます。

山間部を抜け亀岡盆地に出ると、辺りは霧で覆われて視界がとても悪くなりました。

ところで、私が帰省中でも早起きして「まいづる」に乗っているのは、水上勉の「飢餓海峡」を呼んで舞台となった舞鶴に行きたくなったからです。
作中では1957年、青森から東京に出た女主人公が、新聞記事で見た篤志家の恩人に会うために舞鶴を訪れます。

杉戸八重は、京都駅で東海道線から山陰線にのりかえ、汽車がトンネルの多い保津川ぞいの渓谷に入りこむあたりから、北の方の空が曇っていることに、何か、この密やかな旅行の前途が暗くかげったように思われて、気が重くなった。

水上勉「飢餓海峡」 第十三章 舞鶴

普段は目障りな霧が、今日の私にとっては何か吉兆のように感じられました。

園部駅からは単線になりレールも軽く(つまり線路規格が落ちた)響きます。
霧は晴れましたが、あいにくの暗く厚い雲です。
車内の様子を見たところ、「はしだて」の乗車率は8割程度なのに対し、「まいづる」は半分以下でした。
土曜日の時間帯の良い便にしては空いています。
「はしだて」は日本三景の天橋立に行くだけでなく、福知山駅で城崎温泉行き「こうのとり」に連絡してしているのでより混んでいるのでしょう。

寂しい駅を幾つか通過すると線路が下りに転じました。
分水界を越えて裏日本、と言って悪ければ日本海側に来たのです。
針葉樹林が目立ちます。

やがて盆地に出て綾部駅あやべに到着します。
切り離し作業のためしばらく停車。
乗り降りする人もなく、静寂に包まれた数分の後出発。
ここからは舞鶴線に入り進行方向が変わります。

名前だけとはいえ「本線」の山陰本線に対し舞鶴線はローカル線です。
線路がまた軽くなり乗り心地も悪化しました。
狭い土地に粗末な家と畑が集まっています。

西舞鶴駅で下車。
背広姿の人も何人か降りましたが、観光客はたいてい東舞鶴まで行くようです。

舞鶴は東西二つの湾から成っていて、それぞれの湾の岸に沿って西舞鶴と東舞鶴(中舞鶴も含む)に分かれています。
最初に訪れた西舞鶴は北前船の時代から発達していた城下町で、駅から徒歩数分の所に田辺城があります。
城跡の公園のすぐ脇を列車が走っていきました。

その後東舞鶴までバスで移動。
バスの後ろの席に乗っていたおばさんから「神戸みたいな明るい所から、ようこんな殺風景な町まで来てくれはりました。」と歓迎を受けます。

東舞鶴は1900年頃より軍港として栄えた町です。
現在も海上自衛隊の基地港で、かつて海軍の使っていた赤レンガ倉庫は観光施設となっています。
観光の中心になるのはこちらのエリアなので、城に興味がある人以外は東舞鶴だけで良いと思います。

そして何より、舞鶴の歴史に独自の深みを与えているのが、戦後10年以上続いたソ連抑留者等の引揚げです。
引揚船が碇を降ろした沖の桟橋近くにある舞鶴引揚記念館へ、東舞鶴駅からバスに乗って30分程です。
過酷なシベリアでの労働から故国に戻った人と彼らを待つ人で、舞鶴は賑やかというより動乱の様相を呈していました。
街中に張り出されていた「御苦労様でした」のポスターの写真を見て、何気ない言葉でもこんな重たい「御苦労様」があるものかと感じます。

記念館の隣の丘から復元された桟橋(写真右下)を見渡す
右手の岸の工場が建っている所に引揚擁護局があった

駅に帰るバスの本数が非常に少ないことに気付き、タクシーを呼んでもらいました。
ゆっくりと言葉を選びながら話す運転手曰く、冬はずっと今日みたいなあいにくの天気だが、昔と比べて雪はあまり降らなくなったとのこと。
駅前から延びるアーケードの付いた広い通りはひっそりしていました。

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歴史に翻弄される都市

おそらく港へ続いていた線路跡

天橋立・城崎温泉といった行楽地と比べると、たしかに舞鶴は地味な存在かもしれません。
それは「はしだて」と「まいづる」の混み具合の格差からも窺えます。
しかし、戦前の海軍鎮守府、戦後の引揚げ、高度経済成長期の工業化、そして若狭湾の原発と、舞鶴には表面的な「映え」にはない魅力があります。

「飢餓海峡」では引揚が一段落して高度経済成長が始まる前の寂しい町として描かれ、今なお地元の人から「殺風景な町」と呼ばれる舞鶴。
時代に翻弄され続けるこの都市を覆う日本海的な風土は今も変わらないのでしょう。



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