満洲・満鉄紀行④:帝国主義ゲームへの入城式、旅順に刻まれた印象

アジア

満洲…
日本人にとっては、純粋に地理的な意味での「中国東北部」にはない、浪漫や憧憬、そして後ろめたさが交錯する不思議な力がこの言葉にはある。
そんな「日本の新大陸」を象徴する存在が、南満洲鉄道(満鉄)である。
単なる鉄道会社にとどまらず、植民地経営全般を幅広く手掛けていた。

現在でも線路・設備や建物など、その遺産は至る所に残っている。

満洲・満鉄紀行(序):鉄道が繋ぐ近代と現代のグラデーション
満洲…日本人にとっては、純粋に地理的な意味での「中国東北部」にはない、浪漫や憧憬、そして後ろめたさが交錯する不思議な力がこの言葉にはある。その広大な大地は豊かな資源を有する「日本の新大陸」であり、ヨーロッパへの入り口でもあった。そして193…

鉄道と近代史が共鳴し合う強烈な光(とその影)に引き寄せられた私は、2026年9月上旬に満洲を実質7日間旅行した。
本記事は第4回。
日本の近代史の出発点となった日露戦争の激戦地、旅順を訪問した。

⚠️注意
自然な文章にするため、実際の旅行における時系列は一部前後させています。
また当サイトでは、「戦前の日本及び現代の中国・ロシア・北朝鮮=悪」といった西側諸国特製の世界観は採用しません。
スポンサーリンク

旅順は近代日本の出発点

日露戦争は近代国家日本にとってデビュー戦であった。
ロシアとの戦いに勝利したことによって我が国は列強の一員として認められ、以後主体的な「ゲームプレイヤー」として帝国主義時代に参加してゆくこととなる。
また世界史的意義としては、近代以降の本格的な戦争で初めて東洋が西洋を破った快挙でもある。

日露戦争で激戦地となったのがロシアの軍港がある旅順だった。
旅順攻略の鍵となった203高地を巡る攻防は、司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」でもクライマックスとして描かれている。

スポンサーリンク

激戦地の堡塁が残る東鶏冠山は愛国教育の場

旅順へは大連市中心部から西へ約40㎞。
車で1時間程のところにある。
見所が散らばっているので、中国語でタクシーを使いこなせる人でなければ貸し切りツアーを利用するのがよいだろう。
私は旅順を半日で巡るコースを申し込んだ。
9月上旬、清々しい晴天の日であった。

ホテルのロビーで朝9時に日本語ガイドと待ち合わせた。
新品の車に乗り込む。
「やっぱり電気自動車ですか?」と聞くと、
「いえ、トヨタのガソリン車ですよ。」
冬の寒さが厳しい東北地方では電気自動車の信頼性が低いらしい。
大連市に住むガイドの張さんは長年この仕事をされていて、娘さんは東京の大学に通っているとのこと。

車を走らせること1時間、10時過ぎに最初の目的地である東鶏冠山に着いた。
ここは203高地に勝るとも劣らない激戦地の一つで、ロシア軍最強の堡塁が築かれていた。

駐車場には大型の観光バスが多数停まっている。
ここは愛国教育施設として全国から学生がやって来るらしい。
平日の今日でも人が多いが、夏休みはもっと混雑するという。
まずは駐車場の隣にある資料館を見学する。
ここが「愛国教育現場」のようである。

日本人にとっては旅順と言えば日露戦争だが、実はその10年前の日清戦争の戦場でもある。
この時は弱体化していた清が相手なので軍港基地旅順は1日で陥落してしまった。
資料館では、日清戦争における日本軍の市民の虐殺や戦後の強制労働などについて触れられている。
日本の敗戦後も旅順はソ連が占領し、困難な交渉を経て中国に返還されたのは1955年になってからだった。
中国の博物館特有の「中国共産党による苦難の末のサクセスストーリー」ではあるが、旅順について日本にはない視点を得られるのも確かである。

当時は禿山だった堡塁一帯も、現在ではトレッキングコースのように整備されている。
遠足気分で歩いていると、穴の開いた細長いコンクリートの塊が突如として現れる。
ロシア軍の築いた防衛陣地である。
蜂の巣のような弾痕が激戦の模様を物語っていた。
やはり激しく荒廃した内部に入ってみると、120年前の戦跡というよりは古代遺跡を見学しているような感覚である。

周辺には日本軍を何度も退けた名将コンドラチェンコの爆死地点や日本軍が突破口を切り開いた場所や、溝を掘って石を積み上げた塹壕が残されている。
壮絶な戦いの跡が静かに残る、賑やかな観光地だった。

スポンサーリンク

強く悲しい203高地

次に向かったのが旅順のハイライトである203高地。
山の麓の広い駐車場には車は1台もいなかった。
中国人にとってここは花見をする場所で、203高地まで登っていくのはほぼ日本人だけだという。

整備された道を20分ほど歩くと、目の前に大きなミサイルのような形をした塔が見えてきた。
旅順戦の大将乃木希典が漢詩で詠んだ「爾霊山にれいさん」(203を漢字に変えた「爾(なんじ)の霊をまつる山」の意味)の文字が記された慰霊塔だ。
この地を制圧するために、日本軍も甚大な犠牲を払ったのである。
力強くも物悲しく、快晴の青空を刺すように建っている。
東鶏冠山の賑やかさと203高地の静けさは、立場の異なる日本と中国が旅順に込めたそれぞれの強い想いを反映しているのだろう。

この場所からは旅順の軍港を見渡すことができる。
日本軍から丸見えとなった軍艦への砲撃が可能になり、旅順港内のロシア艦隊は全滅させられたのである。
旅順攻防戦はこれにて雌雄を決し、そして日露戦争の勝利へと大きく前進した。
203高地は若き近代日本にとって最初の到達点、人生に例えれば受験の合格発表のような瞬間だったのだろう。
遠方にしっかりと捉えられる天然の良港を見ていると、兵士たちの興奮と喜びが伝わってくる。

スポンサーリンク

当時の空気が伝わる水師営会見所

休憩する間もなく、水師営会見所へ。
旅順戦終結のために、乃木希典とロシアの将軍ステッセルが会見した場所だ。
といっても、藁葺き屋根の粗末な農家で、戦争中は野戦病院として使われていた。
なお建物は当時のものではなく再現されたものである。

内部には会見で使用されたテーブルが残っている。
病院時代には手術用ベッド代わりだったものだ。

壁には当時の写真が幾つも展示されていた。
日露両軍の幹部たちが写った集合写真もある。
それまで戦争していたとは信じられないくらい親しげな雰囲気で、最前列のロシア人など酔っぱらっているのか白目をむいている。
まるで村の結婚式の記念写真のようだ。
新兵器と国家総動員により戦争の概念が変わった第一次世界大戦の10年前、武士道精神・騎士道精神という美徳がまだ生きていた最後の時代のスナップショットである。

スポンサーリンク

軍港駅らしからぬ旅順駅

旅順市内を車で少し走って旅順駅に着いた。
現在では旅客列車の駅として営業していないが、駅舎は綺麗に保存されている。
ややメルヘンチックなロシア風の木造建築で、軍港の駅というよりは観光地を走るローカル私鉄の終着駅のような雰囲気だった。
残念ながら、現在では駅舎内部に入ることもできず、外観を見学できるのみだ。
ホームは1つだけだが、その向こうには留置線がいくつかあった。

満鉄の本線の起点は大連駅だったが、大連駅付近から分岐する支線がここ旅順駅まで延び、さらには近くにある軍港まで続いていたのである。
歴史的にも重要な軍港の駅が、ただの「綺麗な駅舎」としてしか見られていない現状は勿体ない。
駅舎やホームも公開して、駅構内に当時の機関車や客車・貨車などを静態保存してくれたら、もう少し臨場感が出るのにと思う。

スポンサーリンク

景勝地の白玉山塔

最後に訪れたのは白玉山塔。
日本統治時代は表忠塔と呼ばれていた。
ここは旅順屈指のビュースポットとして賑わっており、高さ67mの塔に登ると旅順港や市街地・造船所などが見渡せる。
と書くと観光用の灯台のように思われるが、こちらもやはり東郷平八郎と乃木希典が建てた日本兵の慰霊塔である。

たしかに良い景色だ。
しかし、後で写真を拡大して見てみると軍艦だけでなく潜水艦も写っている。
皮肉なことに、こうした風光明媚で穏やかな海岸というのは軍港としても適している。
日本の瀬戸内海もその典型例である。
戦勝の喜びと犠牲者に対する鎮魂が、120年経った今も煌びやかな景色に溶け込んでいくようだった。

スポンサーリンク

「司馬史観」を再考する

昭和期の日中・日米戦争とは対照的に、明治時代の日本が好意的に評価されるのは、「近代化の階段を登る明治期と破滅に向かう暗い戦前の昭和」といった「司馬史観」によるところが大きいだろう。
しかし私はそう思わない。
日露戦争の勝利により晴れて一等国となった日本の前には、落とし穴がいくつも仕掛けられた「帝国主義ゲーム」が入り口を開けて待っていた。
日露戦争で得た満鉄を中心とした権益を守るために、我が国は次々と新たな対立に巻き込まれてゆく。
自他共に認める東洋の代表国日本が、中国・満洲を巡って新興の最強国家アメリカと衝突して敗北したのは、ある意味必然だったともいえる。

東鶏冠山の資料館にあった風刺画

日露戦争や203高地は、「良かった頃の戦前日本の青春時代」ではない。
旅順港を見渡すあの景色は、理不尽な世界史への出発点に過ぎなかったのだ。

満洲・満鉄紀行⑤:大連現代博物館で辿る満鉄の記憶と「北方の香港」の矜持
満洲…日本人にとっては、純粋に地理的な意味での「中国東北部」にはない、浪漫や憧憬、そして後ろめたさが交錯する不思議な力がこの言葉にはある。そんな「日本の新大陸」を象徴する存在が、南満洲鉄道(満鉄)である。単なる鉄道会社にとどまらず、植民地経…










コメント

タイトルとURLをコピーしました