満洲・満鉄紀行③:大連市内散策(後半)、「日本の新大陸」の窓口の今

アジア

満洲…
日本人にとっては、純粋に地理的な意味での「中国東北部」にはない、浪漫や憧憬、そして後ろめたさが交錯する不思議な力がこの言葉にはある。
そんな「日本の新大陸」を象徴する存在が、南満洲鉄道(満鉄)である。
単なる鉄道会社にとどまらず、植民地経営全般を幅広く手掛けていた。

現在でも線路・設備や建物など、その遺産は至る所に残っている。

満洲・満鉄紀行(序):鉄道が繋ぐ近代と現代のグラデーション
満洲…日本人にとっては、純粋に地理的な意味での「中国東北部」にはない、浪漫や憧憬、そして後ろめたさが交錯する不思議な力がこの言葉にはある。その広大な大地は豊かな資源を有する「日本の新大陸」であり、ヨーロッパへの入り口でもあった。そして193…

鉄道と近代史が共鳴し合う強烈な光(とその影)に引き寄せられた私は、2026年9月上旬に満洲を実質7日間旅行した。
本記事は第3回。
日本統治時代の路面電車に乗って大連港へ行き、昔の面影を探し求めた。

⚠️注意
自然な文章にするため、実際の旅行における時系列は一部前後させています。
また当サイトでは、「戦前の日本及び現代の中国・ロシア・北朝鮮=悪」といった西側諸国特製の世界観は採用しません。
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日本統治時代の路面電車がEVと共に走る

前回(第2回)は中山広場周辺の史跡を巡った。
今回の旅行のテーマは満洲・満鉄なので、大連港を見に行かなければならない。
私は路面電車乗り場に向かった。
地下鉄ではなく敢えて路面電車に乗る理由は単に鉄道趣味だけではない。
大連の路面電車(201路線)では、日本統治時代に導入された1930年代の日本製車両が現役で使用されているのだ。(新型車両と併用)

博物館から引っ張り出してきたような車両がやってきた。
ドアや窓枠は木製で、屋根の上には大きな布団たたきのような集電装置(一般的な電車でいうパンタグラフ)が延びている。

内装・座席もやはり木製で、丸いレトロな照明、金属製の吊革など、当時の雰囲気を色濃く残していた。
冷房がないので窓が開いた状態で、乗降用ドアはガタついている。
客室端の上部にあるモニター画面だけが現代的で、すごぶる違和感があった。
大勢いる乗客のほとんどは観光客ではなく地元民だった。

「吊りかけ式」と呼ばれる重たくて低いモーター音を唸らせる電車は、運転手が加速・減速を切り替える度にガタピシャ音をたてている。
まるで騎手が老いた馬を鞭でビシビシ叩いているようで気の毒な気もしたが、この頑強な馬は、現代中国が世界に誇る電気自動車に負けじと鼻息荒く市街地を走った。

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昔とは大きく変わった大連港

大連港に着いた。
今でもここから天津や仁川(韓国)行きのフェリーが出ている。
かつて日本から満洲を目指した人々は、神戸または門司から客船に乗ってここ大連港へ降り立った。
乗客たちは連絡バスで大連駅へと運ばれ、そこから日本が誇る特急「あじあ」号に乗り換えて奉天(現・瀋陽)や首都新京(現・長春)そして哈爾浜を目指したのである。
「あじあ」号は蒸気機関車牽引で最高速度130km/hを誇り、しかも全車両に空調完備という、戦前当時では世界的にも傑出した伝説の存在であった。

戦前の大連港
大連現代博物館にて

現実は傀儡国家であったにせよ、満洲へ渡った人々は満洲国の「五族協和」「王道楽土」といった理念に共鳴し、そうでなくても彼らなりの夢や善意を持っていたに違いない。
初めて「日本の新大陸」の土を踏みしめる彼らの足取りは、「津軽海峡冬景色」で歌われるような無口で悲哀に満ちた感傷ではなく、揚々とした力強い躍動だったはずである。

当時の大連港の旅客ターミナルの入り口は、そんな歴史を背負った大陸の窓口に相応しい半円形の優美なものだった。
しかし現在ではだいぶ様子が変わっていて、最初は違う港湾施設に来たのかと勘違いしてしまった。
無駄に広い駐車場の向こうには、電源の切れた大型ディスプレイが空しく真っ黒に立ち尽くしていた。
むしろ向かいの埠頭事務所が重厚な建物のままで、昭和初期の雰囲気を今に伝えている。

埠頭事務所

旅客ターミナルの建物に入ってみると、発着するフェリーのない時間帯なのか人の気配が全くない。
暗くひっそりした館内には、日本時代を思い出させるものは見つからなかった。

港の役割も時代によって変わるのだから仕方がないと、気を取り直して旅客ターミナル付近を歩いてみる。
すると、一部の建物外観や柱などに戦前の面影を感じ取ることができた。
時代に取り残されているだけなのかもしれないが、それでも当時の息吹に僅かながら触れることができるのは嬉しいことである。

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大連の食文化について

「日本の新大陸」に渡った人々の様々な思いを追体験したところで私は満足し、ホテル近くの海鮮料理屋で夕食にした。
この店では色々な海産物を串焼きにしてくれるようだ。
昼食のユムシに続き、今回もナマコなどの珍味を試してみる。
日本の居酒屋で食べた生のナマコの食感は硬いが、加熱したナマコは別ものかと思うほど柔らくて独特の風味が引き立っていた。

ところで、この店に限らず大連で食べる海産物の串焼きは、花椒(中国山椒)やクミン・コリアンダーなど鮮烈で刺激的なスパイスで味付けされている。
中国東北部で一般的な羊肉の串焼きはこの食べ方が最高にマッチするが、それを港町大連ではナマコや貝にも応用しているのだろう。
つまり中国東北地方を北海道に当てはめると、函館のイカをジンギスカンのタレで食っているわけだ。
しかし、私としては特産の珍味はやはり繊細な調理法で素材を味わいたい。
函館のイカはジンギスカンのタレではなく、松前漬けの方が合うのである。

と頭では考えつつも、これも悠久なる大陸の風土が成せる業なのだろうか、私のマゾヒスティックな舌はスパイスに屈服し、ナマコや貝や深海魚に夢中になってしまった。
サウナ後のように気分よく汗を流しながらホテルに戻った。

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白酒と高粱(こうりゃん)と満洲

ホテルではコンビニで買った白酒を飲んだ。
白酒は透明の蒸留酒で高粱こうりゃんを原料としている。
アルコール度数を見ると52%と、あの焼酎よりも遥かに高い。
味は原料由来と思われる「まろやかな香ばしさ」が非常に特徴的で、米焼酎と麦焼酎を足して(2で割るのではなく)2倍にしたイメージである。
中国人はストレートで飲むらしいが、私は流石に少し薄めて飲んだ。
寝る前にちびちびやるには最高で、満洲に来て白酒を飲まずに帰るのは薩摩で芋焼酎を飲まないようなものだと、今では思っている。

高粱は古くから中国北部の主食で、満洲国が発行した硬貨や記念賞にもデザインとして採用されていた。
日本人にとっての米と同様、満洲に生きる人々の精神風土である。
しかし白米と比べると粗悪な穀物とされ、現在では白酒の原料や家畜の飼料としての利用が多いそうだ。

満洲国の賞状、中央上部に高粱が描かれている。
長春市の偽満皇宮博物院にて

なお、満洲国時代は主食が配給制となっていて、日本人には米、中国人には高粱が支給されていた。
このエピソード一つとっても民族協和というスローガンに反する差別が、文字通り日常茶飯事に行われていたことが窺える。

しかし現在では高粱は健康食として見直されているという。
従来は白米や小麦に劣るとされていた玄米やライ麦が、「量(糖質・カロリー重視)より質(ビタミンやミネラルも含む)」の穀物として注目されているのと同じである。
つまり、かつては民族差別の象徴だった高粱も、現在では国民の豊かさと健康増進の象徴となっているのである。
そう考えると、白酒もより一層その味わいに深みが出てくるような気がした。

以上、満洲の出発点である大連を散策した。
これだけ変化のスピードが速い中国社会にあって、否定的にとらえられがちな日本統治時代の遺産が多く残され、そして親しまれているのは奇跡的だと言えるだろう。
次回はもう少し時代を遡って近代日本の出発点、日露戦争の激戦地の旅順を訪れる。

満洲・満鉄紀行④:帝国主義ゲームへの入城式、旅順に刻まれた印象
満洲…日本人にとっては、純粋に地理的な意味での「中国東北部」にはない、浪漫や憧憬、そして後ろめたさが交錯する不思議な力がこの言葉にはある。そんな「日本の新大陸」を象徴する存在が、南満洲鉄道(満鉄)である。単なる鉄道会社にとどまらず、植民地経…








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