満洲…
日本人にとっては、純粋に地理的な意味での「中国東北部」にはない、浪漫や憧憬、そして後ろめたさが交錯する不思議な力がこの言葉にはある。
そんな「日本の新大陸」を象徴する存在が、南満洲鉄道(満鉄)である。
単なる鉄道会社にとどまらず、植民地経営全般を幅広く手掛けていた。
現在でも線路・設備や建物など、その遺産は至る所に残っている。

鉄道と近代史が共鳴し合う強烈な光(とその影)に引き寄せられた私は、2026年9月上旬に満洲を実質7日間旅行した。
本記事は第12回。
瀋陽(沈阳)から北朝鮮国境の街、丹東まで高速鉄道に乗車した。
⚠️注意
自然な文章にするため、実際の旅行における時系列は一部前後させています。
また当サイトでは、「戦前の日本及び現代の中国・ロシア・北朝鮮=悪」といった西側諸国特製の世界観は採用しません。
旅行は点ではなく線
1日半の瀋陽滞在を終えて、また東京駅のような外観の瀋陽駅に戻ってきた。
到着時は気づかなかったが、エントランスの内装も戦前らしいクラシカルな内装だった。
やはり郊外にある新しい高速鉄道駅(例えば瀋陽北駅)ではなく、市内の「中央駅」から乗る方がずっと気分が盛り上がる。


満鉄の看板列車だった特急「あじあ」(大連~瀋陽~長春~哈爾浜)のルートに忠実たらんとすれば、瀋陽からは長春を目指すべきだが、これから寄り道をして北朝鮮国境の街・丹東に行き、その後に長春を訪れる。
「寄り道」といっても、急行「ひかり」(釜山桟橋~新京(現・長春))や「大陸」(釜山桟橋~北京)など朝鮮半島を縦断する国際列車が通っていたから、由緒正しい幹線であることには間違いない。
ところで、初日の大連から瀋陽・丹東・長春を訪れる際の最も合理的な経路は、大連→丹東→瀋陽→長春である。
しかし、このスマートなルートを断じて採用することはできない。
なぜなら満鉄本線の大連~瀋陽の区間が抜け落ちてしまうからだ。
「満洲・満鉄紀行」と銘打った旅行がそんな不完全な代物では、特急「あじあ」に申し訳が立たない。
そのため、瀋陽~丹東を往復する不細工な旅程を敢えて組んだ。
私にとって、旅行とは「点」ではなく「線」なのである。
混雑した瀋陽駅
さて、日曜日の午後の瀋陽駅は大変混雑していた。
改札開始前から乗車口には長蛇の列ができており、列が進み始めると客が押しあい殺伐とした空気となった。
毎日のことだが、中国人はなぜかくも生き急いでいるのかと思う。

いつも通りチケット代わりの身分証明書、つまりパスポートを読み取り機にかざす時、後ろの方で「リーベン(日本人)!」と叫ぶ声が聞こえた。
たまたまその単語の意味を知っていたので振り向くと、私が「リーベン」を解するはずがないと踏んでいたその女性は恥ずかしそうに会釈してきた。
大都市の瀋陽は言うに及ばず、丹東も「地球の歩き方」に載っているそこそこの規模の都市だが、それでもこの路線に乗る日本人はよほど珍しいらしい。
戦前は内地から朝鮮を経て満洲国に入国する時も、日本人はパスポートさえ必要なかったのだが。
ホームに降り立った時には丹東行き列車は既に入線していた。
車両は「ペンドリーノ」と呼ばれるイタリアの高速電車の中国版だった。
「郷に入っては郷に従え」の掟は鉄道車両の世界にもあるのか、本家イタリアでは派手な銀色と赤の塗装で着飾っているペンドリーノも、ここ中国では白と青の無難な制服姿である。

満洲らしからぬ山間部を走る
定刻14時8分、まだ多数の乗客が通路で席を探して立ち往生しているなか出発。
車内は満席で、指定席が取れずデッキに立っている人もたくさんいた。
もとは車体傾斜機能付きのスマートな車両を中国仕様で横5列座席にしたため、乗った感じではやや狭く感じた。
今日のように車内が混んでいる時はなおさらだ。
広大で平坦な車窓がひたすら続く大連~瀋陽とは対照的に、朝鮮半島付け根付近の山脈を越えるこの区間はトンネルが多かった。
電光掲示板で表示される速度も220~240km/hくらいで、高速鉄道のなかでは低規格の路線のようだ。
今乗っている車両の最高速度も250km/hで、イタリア国内の高速鉄道でも「二番手」の路線に運用されている。
もっとも国際市場ではこれくらいのスペックが一番需要があるので、ペンドリーノシリーズは世界各地に輸出されている。
しばらくすると、渓流が広がり山あいの市街地が現れた。
程なくして本渓駅に到着。
瀋陽の奥座敷の温泉地のような雰囲気だ。
しかし川沿いに建ち並んでいるのは旅館ではなく大都市と同じ高層ビルなので、今一つ風情には欠けた。

なおもトンネルが続く。
重力の感覚では下り勾配のようだ。
トンネルの合間には農村風景が短い間だけ広がる。
水田の代わりにこうりゃん畑なのを除けば、日本の北陸新幹線に乗っているような感覚で何処かホッとする。

車窓が一気に開けると丹東の街が現れた。
大味な旧満鉄本線(大連~哈爾浜)と比べると、わずか1時間20分の所要時間ながら景色に変化があり、達成感のある旅の終わり方である。
なお、1940年8月の時刻表を見ると、奉天(現・瀋陽)~安東(現・丹東)は当時の急行「ひかり」や「大陸」でも5時間半を要している。
高速電車がトンネルを貫いて突っ走る現代とは違って、当時の蒸気機関車は山岳路線の急勾配に挑みながら満洲の広大な荒野を目指したのである。
北朝鮮を臨む辺境都市・丹東
15時30分、終着の丹東駅に到着。
熱気ある車内から出たが、外も相変わらず蒸し暑い。
気温は30度近かった。
ホームからは、前方に中朝国境の鴨緑江に架かる鉄道橋が見えた。
上部が辛うじて見える程度だが、我々を招いているように感じられる。

写真の中央部に中朝国境の橋が見える
ここで一息ついて中国の辺境に辿り着いた余韻に浸りたいところだが、今回はそうはしていられない。
約40分後に、あの橋の上を1日1往復運行されている中朝間国際列車(北京・丹東~平壌)が走るはずである。
かなり年季の入ったタクシーを捕まえて、私は駅から橋の袂へ急いだ。

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