満洲・満鉄紀行⑧:張氏帥府の栄華と、忘れ去られた張作霖爆殺現場

アジア

満洲…
日本人にとっては、純粋に地理的な意味での「中国東北部」にはない、浪漫や憧憬、そして後ろめたさが交錯する不思議な力がこの言葉にはある。
そんな「日本の新大陸」を象徴する存在が、南満洲鉄道(満鉄)である。
単なる鉄道会社にとどまらず、植民地経営全般を幅広く手掛けていた。

現在でも線路・設備や建物など、その遺産は至る所に残っている。

満洲・満鉄紀行(序):鉄道が繋ぐ近代と現代のグラデーション
満洲…日本人にとっては、純粋に地理的な意味での「中国東北部」にはない、浪漫や憧憬、そして後ろめたさが交錯する不思議な力がこの言葉にはある。その広大な大地は豊かな資源を有する「日本の新大陸」であり、ヨーロッパへの入り口でもあった。そして193…

鉄道と近代史が共鳴し合う強烈な光(とその影)に引き寄せられた私は、2026年9月上旬に満洲を実質7日間旅行した。
本記事は第8回。
20世紀初頭に中国東北地方を支配した軍閥の邸宅である張氏帥府博物館を訪れ、張作霖爆殺事件現場(中国では「皇姑屯事件」と呼ばれる)を探し求めた。

⚠️注意
自然な文章にするため、実際の旅行における時系列は一部前後させています。
また当サイトでは、「戦前の日本及び現代の中国・ロシア・北朝鮮=悪」といった西側諸国特製の世界観は採用しません。
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張作霖と張学良の屋敷、張氏帥府博物館

瀋陽観光の目玉である故宮をスキップして、その近くにある張氏帥府博物館にやって来た。
この地域で強い影響力を持った軍閥の張作霖とその息子張学良の官邸兼私邸だ。
入り口には張作霖の銅像が誇らしげに建っている。
日本では張作霖爆殺事件に絡んで父親の方が知名度が高いので、この時点で意外な印象を受けた。

張学良の銅像

敷地はとても広く大きな建物が幾つもあった。
これは地方の有力者の屋敷どころではなく、まるで中国東北部にある一国の王宮のようだ。
清朝を倒した1911年の辛亥革命の後も中国全土が統一されたわけではなく、張氏のような地方軍閥の力がいかに強かったが窺える。
実際に、張作霖は第二のヌルハチ(清の初代皇帝で、都を瀋陽に遷した)になろうとする野望を持っていたとも言われる。
この大邸宅も故宮に対抗してのものだろう。

見学する建物は伝統的な中国風のものから、「中華バロック」と呼ばれる20世紀前半の欧風建築まで様々だった。
近世から西洋風の近代に至る、中国の歴史の過渡期を辿っているかのようだ。

中国風の小青楼
中華バロックと呼ばれる建築様式の大青楼

豪華な部屋の数々は張学良やその家族が使ったもので、そのなかには張作霖の部屋がある。
中国東北部における権益を守りたい日本は、この地方の軍閥だった張作霖を支援していたが、次第に彼は勝手な行動をとるようになった。
そして昭和3年、日本と敵対関係にあった蒋介石率いる国民党との戦いで敗れ北京から逃げ帰る張作霖は、列車ごと爆破された。
瀕死の重傷を負った張作霖が運び込まれて息を引き取ったのが、今私が見ている部屋なのである。

張作霖が息を引き取った部屋

日本は中国人の仕業として擬装するも工作はすぐにバレてしまう。
しかも父の後を継いだ張学良が蒋介石と組んで東北地方の国民党への統合が実現したため、事件そのものは失敗どころか日本の期待とは逆方向に事態が進むこととなる。
それでも張作霖爆殺事件が重要なのは、国内政治における歴史的意義にある。

事件が明るみになってからも軍の圧力を受けて有耶無耶に済まそうとする田中義一首相を、昭和天皇は叱責して辞任まで迫ったという。
結局田中首相は辞任するが、この一幕は立憲君主制の観点から宮中で問題視され、以後昭和天皇は内閣の決定に対して物言えぬ存在となる。
こうして、無能な内閣をよそに軍が独断で物事を進め、天皇もそれに異を唱えることができないという、戦前昭和史の悪しきパターンが出来上がったのである。

一方の張学良は、その後蒋介石を裏切る形で中国共産党と中国国民党の第二次国共合作を実現させ、中国共産党の窮地を救った立役者とされている。
入り口の銅像も、そんな中華人民共和国の歴史観の象徴だったのだ。

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張作霖爆殺事件現場を探し求めて

張氏帥府博物館を後にして、今度は実際の張作霖爆殺事件現場を探しに行く。
線路沿いに皇姑屯事件博物館があり、その近くに事件現場を示す記念碑があるという情報をどこかで得ていた。
博物館が休館中なのは知っていたが、とりあえず何かあるかもしれないので行ってみる。
外から見ると新しい施設で、敷地には爆破された列車の現物大の模型があった。

しかし線路沿いを歩いても、周辺には鉄路関係のアパートが建ち並んでいるだけで記念碑は見つからない。
そもそも、写真や記述によれば現場は線路が立体交差している地点のはずである。
どうやら博物館近くは事件現場ではなく記念碑もないらしい。

線路が複雑に絡み合うジャンクション部分まで来た。
何本もの線路がめいめい意思を持っているかのように各方面に延びてゆく光景は、鉄道ファンとしてはたまらない。
しかし、やはりお目当ては見つからない。

無為に歩き回ること1時間強、だんだん日も暮れてきた。
線路の傍らの小さな公園に何かを発見して興奮したのも束の間、汚い用具置き場を探し当てるに至り、さすがの私も故宮をスキップしてまで何をやっているのかと阿保らしくなってきた。
腹も減ってきたことだし、もう諦めることにした。

そのまま西塔という中国最大規模のコリアタウンに行った。
徒労の虚しさは冒険心に変わり、北朝鮮レストランに足を運んだ。
(この話については別記事で紹介したい。)

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事件現場探しに再チャレンジ

さて、一度は諦めたものの、その後も事件現場のことが気になっていた。
改めてDeepSeek(中国のAIモデル)で調べると、「三洞橋」という現役の鉄道橋が現場で、日付を刻んだ小さな記念碑があるという。
それをもとに百度地図(中国版のグーグルマップ)を拡大して見ると、たしかに「皇姑屯事件発生地」と書かれたエリアが現れた。
さすがは地元のプラットフォームである。

翌朝、私は意地になって早起きして現場へ急行した。
果たして、線路と小道に架かる鉄道橋があった。
当時の満鉄線(大連~哈爾浜)と京奉線(今の瀋陽~北京。後に満鉄線に編入される)が交差する地点である。

張作霖爆殺事件現場
写真右側を白い電車が走っている
張作霖爆殺事件現場

ついに張作霖爆殺事件発生地に辿り着いたのだ。
白黒写真で見たのと同じ構図である。
もっとも100年前の原野と違って今では街の路地裏だ。
横を列車がキイキイと音を立てながら、緩くカーブした線路を過ぎ去っていった。
路上駐車された車と散歩する人が時々いるだけの、全く日常的な所だ。

当時の写真
9・18歴史博物館にて

結局、記念碑は見つからずじまいだった。
線路脇では工事が行われていたので見えなかったか、撤去されたか、あるいは単に見落としただけかもしれない。
しかし、私は納得した。
記念碑が無かった、もしくは探しても見つからなかった、というのが答えなのである。
言ってみれば、中国人にとって張作霖爆殺事件とはその程度なのだろう。

大邸宅の入り口に立派な銅像がある張学良と、爆殺現場の記念碑すら見つからなかった張作霖。
父と息子の扱いの差は、日中の歴史観・歴史認識の大きな隔たりそのもののようだ。

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