満洲・満鉄紀行②:大連市内散策(前半)、日露合作の夢を追う

アジア

満洲…
日本人にとっては、純粋に地理的な意味での「中国東北部」にはない、浪漫や憧憬、そして後ろめたさが交錯する不思議な力がこの言葉にはある。
そんな「日本の新大陸」を象徴する存在が、南満洲鉄道(満鉄)である。
単なる鉄道会社にとどまらず、植民地経営全般を幅広く手掛けていた。

現在でも線路・設備や建物など、その遺産は至る所に残っている。

満洲・満鉄紀行(序):鉄道が繋ぐ近代と現代のグラデーション
満洲…日本人にとっては、純粋に地理的な意味での「中国東北部」にはない、浪漫や憧憬、そして後ろめたさが交錯する不思議な力がこの言葉にはある。その広大な大地は豊かな資源を有する「日本の新大陸」であり、ヨーロッパへの入り口でもあった。そして193…

鉄道と近代史が共鳴し合う強烈な光(とその影)に引き寄せられた私は、2026年9月上旬に満洲を実質7日間旅行した。
本記事は第2回。
大連市内散策の前半、市のランドマークである中山広場周辺の史跡を巡ろうと思う。

⚠️注意
自然な文章にするため、実際の旅行における時系列は一部前後させています。
また当サイトでは、「戦前の日本及び現代の中国・ロシア・北朝鮮=悪」といった西側諸国特製の世界観は採用しません。
スポンサーリンク

中山広場と満鉄関連の史跡

大連に到着して、まずは中山広場に降り立った。
大都会の中心部に鎮座する直径200mを越える円形の広場からは、放射状に10本の道路が延びている。
針葉樹が植えられた公園のような空間で、雲一つない空にはもう秋の気配が感じられる。

中山広場を囲むようにして近代建築が建ち並んでいる。
いずれも20世紀初頭から前半にかけて、日本統治時代に造られたものだ。

ドーム型天井が華やかな旧横浜正金銀行、重厚な建物に祇園祭の山車をイメージした塔を載せた旧大連市役所など、どれも意匠を凝らしている。
そんな傑作たちのなかにあって最も目立つのは大連賓館(ホテル)だろう。
満鉄直営のヤマトホテルの建物を利用している。(訪問時は現在のホテルも改装中)

堅牢にして優美なホテルだ。
エントランスの屋根も洒落ていて、今にもシルクハットに口ひげを生やした老紳士が出て来そうである。
白いワンピース姿の女の子がモデル気取りで大連賓館をバックに撮影していた。

周辺には現代の高層ビルが続々と押し寄せており、物理的には近代建築群は押しつぶされているのかもしれない。
しかし実際に広場から眺めると、むしろ背後に高層ビルを従えて歴史的建造物たちが堂々と立ち尽くしているように感じる。

同じロゴ(中国銀行)を付けた新旧の建物

これら近代建築そのものは横浜や神戸にもありそうなもので既視感があるが、日本離れした広場のスケール感はまるでヨーロッパの大都市のようでもある。
そしてこの違和感こそが、実は大連の歴史を映し出しているのだ。

大連が歴史の表舞台に登場するのは遅く、19世紀末にロシアが軍港旅順の後背地として商業都市を建設したことに始まる。
欧米列強のなかでは後発組だったロシアは、パリに倣った都市計画によりニコラヤフ広場をつくった。
これが現在の中山広場である。

日露戦争で遼東半島の権益を日本が再び手中に収めると、ロシアの街づくりを日本が引き継ぐこととなる。
そしてまだ何もなかったニコラヤフ広場を大広場と改め、現在の姿に築き上げた。
つまり、ロシアが設計した大らかなる土台に日本の優美な建物が並ぶ中山広場は、大連の複雑な歴史が生み出した日露合作の芸術作品なのである。

それにしても、ここに佇んでいると日本の満洲(あるいは満洲国)に対する意気込みが伺える。
石原莞爾いしわらかんじ(関東軍参謀で満洲事変を主導した)らの掲げた「民族協和」は、理想としては嘘偽りがなかったものと私は考えている。
無論、結果は当初の意図とは大きく乖離した無残なものだった。
その儚さ故に中山広場はより一層美しく見えると言ったら、外国人旅行客の贅沢な貴族趣味になるだろうか?

中山広場周辺にも日本統治時代・満鉄関連の遺産が散在している。
建物として一番迫力があるのは、広場より南側の高台にある旧満鉄病院だろう。
1925年に竣工した当時は東洋一の規模を誇った総合病院だった。
現在も病院として利用されている。
蔦の絡まった歴史を感じる建物は奥行きがあって相当広く、病院よりも政府系機関のような威容である。

それから旧満鉄本社も見逃せない。
かつては内部見学できたそうだが、現在は惜しくも閉館している。
ドアからエントランスを覗くと、まだまだ現役の美しい部屋が訪問客を招いているようだった。
玄関前には毛沢東の顔が描かれたプレートを付けたミニチュアの蒸気機関車が展示されている。
歴史的建造物のどさくさに紛れてこういうものがあるとやや興ざめではある。

エントランス内部

本社の近くには鉄道(中国語では「鉄路」)関係のホテル・レストランがあり、日本統治時代からの歴史の連続性を感じさせる。
レストランの隣にはスポーツ施設があったが、ここは廃墟遊園地のようになっていた。

スポンサーリンク

昼食は大連名物ユムシ

さて、今日は深夜の飛行機乗り継ぎの後にすぐ観光を開始したので、一休みしたいし腹も減っている。
遅めの昼食にしよう。
黄海と渤海に囲まれる大連は海鮮料理でも知られる。
名物料理の一つにユムシ炒飯がある。
ユムシ(中国語では「海腸」)というのは太いイモムシのような無脊椎動物で、見た目はいかにもグロテスクだ。
その見た目から、英語では”Penis Fish”とも呼ばれるらしい。
一体どこの馬鹿な中学生が付けた名前だろうか。

見た目と名前はともかく、ユムシはトリ貝を濃厚にしたような味・食感でとても美味かった。
日本各地を旅した私が辿り着いた「不細工な魚ほど美味い」理論が、ここでも立証された形である。
炒飯はあんかけ風の味付けで、日本人にも大変馴染みのあるものだった。

スポンサーリンク

勝利橋とロシア人街

胃と好奇心を満たしたところで史跡巡りに戻ろう。
大連駅近くの勝利橋に着いた。
鉄道を跨いで架かるこの橋は、日本統治時代は日本橋と呼ばれていた。
江戸の日本橋が日本の交通の起点なら、大連の日本橋は満洲の出発点ということになるだろう。
橋の上を車が行き交い、レトロな雰囲気の欄干の上にフェンスが被さっており、残念ながら名前から期待できるほどの風情は感じられなかったが、それを言えば高速道路に覆われた「本家」はもっと酷い。

旧日本橋こと勝利橋
橋から見る大連駅近くの車両基地

その橋を渡った先に旧ロシア人街が広がっている。
橋の上から見えるのが、ロシア統治時代に建てられた旧東清鉄道汽船本社のレプリカで、展覧館として使用されている。
中山広場の重厚な建築と比べると、装飾的でロマンチックな印象だ。
ちなみに、戦前に大連行きの客船が出ていた現在の門司港エリアにも「大連友好記念館」というよく似た建物がある。

そこから先の通りはロシア風テーマパークさながらで、同じような土産物屋ばかりが並んでいた。
突き当りの噴水広場に出ると、堂々とした旧ダーリニー(ロシア時代の大連の呼び名)市役所が待ち構えている。
後の日本時代には満鉄本社として使われたこともあった由緒ある建物だ。
痛々しいほど荒れていて修復工事中だったが、逆にそれが観光地化された紛い物ではない本物だという証だと安心してしまった。

旧ダーリニー市役所

以上、中山広場周辺の史跡を辿ってきた。
ところで、今回の旅行のテーマは満洲・満鉄である。
次回の大連市内散策後半ではその出発点である大連港を訪れ、「日本の新大陸」の土を初めて踏んだ人々の様々な思いを追体験しにいこう。







コメント

タイトルとURLをコピーしました