満洲…
日本人にとっては、純粋に地理的な意味での「中国東北部」にはない、浪漫や憧憬、そして後ろめたさが交錯する不思議な力がこの言葉にはある。
そんな「日本の新大陸」を象徴する存在が、南満洲鉄道(満鉄)である。
単なる鉄道会社にとどまらず、植民地経営全般を幅広く手掛けていた。
現在でも線路・設備や建物など、その遺産は至る所に残っている。

鉄道と近代史が共鳴し合う強烈な光(とその影)に引き寄せられた私は、2026年9月上旬に満洲を実質7日間旅行した。
本記事は第16回。
満洲国の首都・新京こと長春に残る実験都市の夢の跡を訪ねた。
⚠️注意
自然な文章にするため、実際の旅行における時系列は一部前後させています。
また当サイトでは、「戦前の日本及び現代の中国・ロシア・北朝鮮=悪」といった西側諸国特製の世界観は採用しません。
満洲国の丸の内
吉林省の省都・長春は、人口900万人の大都市だ。
しかし、20世紀初頭までの長春はごく普通の小さな町に過ぎなかった。
飛躍のきっかけになるのは1932年、同年に建国された満洲国の首都に選ばれたことである。
政治的しがらみも、物理的制約もない「新大陸の首都」を、日本人は「新京」と名付けた。
こうして、ゼロからの理想的な都市計画が進められていったのである。
遺された新京時代の建物の多くは、今でも現役で利用されている。
満洲国建築巡りのスタートは人民広場から。
大連や奉天(現・瀋陽)の中山広場と同様、歴史的建築物に囲まれた円形の広場で、街の中心部だ。
まず目につくのが、ギリシャ神殿のような柱が並ぶ旧満洲中央銀行。
現在も中国人民銀行として使われている。
近くには、当時通信事業を独占的に経営した満洲電信電話株式会社の本社ビルもある。


大連の中山広場の建物たちが優雅だったのに対し、こちらは重厚さが目立っている。
大連の都市整備は19世紀末から20世紀初頭にかけて行われたが、それまで小さな町だった長春は1932年に満洲国の首都に選ばれてから急速に都市化が進んだ。
西洋への憧れが滲む大連と、国家の威容を誇示する長春。
両者の違いは、それぞれの時代精神の変遷をも物語っているようだ。
人民広場から北に延びる人民大街(旧大同大街)が長春のメインストリート、いわば「満洲の丸の内」である。
真っすぐ続く幅の広い道路には中国風の赤い提灯が吊り下がり、中央分離帯には松林が植えられている。
土地の狭い「内地」の都市では考えられないスケール感だ。

当然ながら新京時代とは街の雰囲気は変わっているが、当時の建造物は随所に残っている。
直方体の大きな塊のような長春市中心医院は、旧海上ビル(日本海上火災保険ビル)である。

そして何より特徴的なのが、旧関東軍司令部。
素っ気ないコンクリートの建物の上に、日本のお城を模した天守閣が載っている。
装飾を廃した戦間期のモダニズム建築と、日本の国家主義の奇妙な混合といえよう。
そんな建物も、現在は中国共産党吉林省委員会の手に渡っている。
余談になるが、「地球の歩き方」では「日本の城は日本の風土にあってこそ美しいことを証明するいい例であろう」と述べられている。
執筆者は気の利いた皮肉を込めたつもりだろうが、私はそうは思わない。
建物が体現しようとした思想の歴史的評価と、その建造物自体の芸術的価値は分けて考えるべき、というのが私の見解である。
例えば私はスターリン建築は美しいと思っているが、ソ連のスターリン時代を美化するつもりはない。

こちらは裏門
話を新京の大同大街に戻そう。
さらに北へ歩いて行くと長春駅前のロータリー広場に辿り着く。
その広場に面して旧ヤマトホテル、現在の春誼賓館がある。
今まで見てきたビルと比べると、明らかに曲線的で柔和な表情である。

このホテルが開業したのは、満洲国建国より20年以上早い1910年。
当時は満鉄本線の終着である長春は、ロシアとのフロンティアであった。
外国との接点として発展した長春はやがて首都となり、春誼賓館は新京のステーションホテルとして人々を迎えるのである。
大同大街の突き当りに聳え立つのが長春駅だ。
巨大な鳥が翼を広げたような姿が印象的である。
本当は大同大街を歩いている時からずっと見えていたのだが、改めて近くで見るとその躍動感には畏怖させられる。

現在の駅舎になったのは1990年代なので、満洲国とは全く関係がない。
にもかかわらず、新京時代の威圧的ともいえる建築群を見学した後だと、それらの延長線上に、何の違和感もなく長春駅が存在しているかのように思われる。
もちろん満洲国と中華人民共和国を同一視したいわけではない。
しかし、人民広場・大同大街、そして長春駅と続く物理的連続性は、歴史の繋がりをも暗示しているようだった。

満洲国の霞が関
地下鉄に乗って人民広場に戻った。
そこから今度は南西の方角を目指す。
相変わらず中国らしい生活感に乏しい、整然とした街並みだ。
牡丹園という公園の敷地には純日本式武道館の旧神武殿(現・鳴放宮)がある。
簡素でありながら力強い、まさに日本的な美意識を象徴した建物である。
外から眺めているだけでも、剣道や柔道の稽古をする物音や掛け声が聞こえてきそうだ。
日本の軍国主義が中国に不幸をもたらしたのは事実だとして、それでもここにある神武殿の佇まいの美しさは変わらない。
蒸し返すようで恐縮だが、私が関東軍司令部についての「地球の歩き方」の記述に賛同できかねるのはそうした趣旨である。

さて、文化広場に着いた。
ここから南に約1.5㎞延びる新民大街(旧順天大街)の周辺が、人民大街と並ぶ第二の満洲国建築が残るエリアである。
まず目につくのが文化広場の北辺にある、中国風な外観の威厳ある宮殿のような建物だ。
現在、吉林大学の地質宮博物館として使われている。

実はこの建物は、満洲国皇帝の新宮殿として建てられたものだった。
しかし太平洋戦争の勃発と戦況悪化によって建設は中止され、戦後に中華人民共和国がほぼ原案通りに完成させている。
ちなみに、古い方の宮殿、つまり実際に皇帝が使っていた宮殿は、偽満皇宮博物院として公開されている。
文化広場から南に延びる順天大街沿いに、満洲国時代の行政機関の建物が集まっている。
さながら「満洲国の霞が関」のような所だ。
文化広場に面して、東京の国会議事堂に似た国務院と、日本風の屋根が特徴的な軍事部が向かい合っている。
南端を押さえるのが、ヨーロッパと東南アジアの建築様式を折衷したような総合法衙(最高司法機関)。
その間に経済部・司法部・交通部の建物が収まっている。
どこか各省庁・機関の力関係を投影した配置のように思えなくもない。


それはともかく、エキゾチックな交通部や和洋折衷の司法部など、それぞれの建物はどれも個性的なデザインだ。
このコスモポリタンな世界観は、日本人の満洲国建設に賭ける意気込みを表しているのかもしれない。


一方でこれまで見てきたように、様々な要素が未消化のまま迷走気味に表現されているきらいもある。
崇高な理念・理想を掲げたものの、結局は看板倒れのまま瓦解してしまった満洲国そのものの本質が見え隠れするように思えてならない。

人参鹿鞭酒と長春のテロワール
ホテルに戻り、長春市で生産された人参鹿鞭酒を開封した。
高粱でつくった白酒をベースに、高麗人参と鹿鞭を漬け込んだ酒だ。
鹿鞭とは何かというと、何と鹿のペニスと睾丸を乾燥させた漢方素材だという。
もし事前に調べていれば、飲むのをためらっていたかもしれない。
高粱の香ばしさはよく分かるが、それに重なるように複雑で不思議で濃醇な味わいが広がる。
アルコール度数も42%とかなり高い。
「体を温め、男を元気にさせる」効果はたちまち実感された。
寝る前に男一人でちびちび吞むのが勿体ないくらいである。
冗談はさておき、新京の整然とした街並みは、酒で喩えれば磨き上げた吟醸酒になるだろうか。
しかしこの鹿鞭酒が表現するように、長春のテロワール(土地の個性)はかくもディープで野性的なのである。
やはり満洲国とは歪な存在だったのだなと、酔い心地のなかでかえって冴えてきた頭で考え始めた。

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