筑豊本線は若松駅から折尾駅・直方駅を経て鹿児島本線の原田駅に至る路線です。
1950年代までは筑豊炭田の石炭を輸送する重要な役割を果たしましたが、エネルギー革命以降は複線化された設備も手持ち無沙汰となり、枝分かれする支線の多くが廃止されてしまいました。
一方で通勤輸送に活路を見出した区間もあり、現在では以下に示す正式な路線名とは別の愛称の方が実態に即しています。
- 洞海湾沿いの北九州工業地帯を走る、若松~折尾(若松線)
- 無駄に設備だけ立派な斜陽線から次第に通勤路線の様相を帯びていく、折尾~桂川(福北ゆたか線)
- 完全に時代から取り残されたローカル区間、桂川~原田(原田線)
2022年3月上旬に筑豊本線に全線乗りました。
なお若松→桂川と原田→新飯塚に分けて乗車したので、本記事では実際の私の行程通り、原田線のパートのみ逆方向で収録しています。
若松線(若松~折尾)
蓄電池電車819系が走る
鹿児島本線からヒゲの様に生えた10㎞程度しかない若松線区間も筑豊本線の一部です。
始点の若松駅は各地から鉄道で運んできた石炭を、船で各地に輸送するための積出港として機能していた重要な駅です。
駅前の広場はかつて貨車が並んでいた操車場で、あまり手入れされていない蒸気機関車が保存されています。
待合室や広場周辺には昔の写真・パネルも多く設置され、石炭輸送華やかなりし頃の歴史を今も誇示しているようです。
日中は1時間に2本の列車が設定されており、所要時間は約15分です。
また、短い距離ながら非電化で残っている若松線には、珍しい蓄電池電車の819系が投入されています。
乗車記:洞海湾沿いの工場地帯
辺りの広大な広場に比べて慎まし気な若松駅に、2両編成の電車がポツンと停車していました。
午後三時ごろということもあり、車内は空いています。
ところで、若松駅へは若戸渡船でも行くことができます。
鹿児島本線の戸畑駅から戸畑港、若戸港から若戸駅はいずれも徒歩10分以内で、真っ赤な若戸大橋を仰ぎ見ながら3分で向こう岸に辿り着きます。
橋ができても航路が維持されているのは心温まります。
発車後まもなく左手に現れるのは川ではなく洞海湾で、工場が立ち並んでいます。
工業化による汚染により、かつては「死の海」とまで呼ばれた洞海湾ですが、近年は環境ビジネスの集積地となっています。
私が今乗っている蓄電池電車も、環境保護に対する回答の一つなのでしょう。
さて、多数の煙突を遠目に見ながら贅沢すぎる複線の線路を走ると、高架になり折尾駅に到着します。
折尾駅は以前、鹿児島本線と筑豊本線が立体交差する駅として知られていました。
今では筑豊本線のホームは鹿児島本線に横付けする形になっています。
福北ゆたか線(折尾~桂川)
貨物輸送から通勤輸送へ
「福北ゆたか線」という愛称は黒崎~直方~桂川~博多を指し、このうち折尾~桂川が筑豊本線区間です。
石炭産業の衰退により輝きを失っていた線路ですが、1968年に吉塚(博多の隣)~桂川を結ぶ篠栗線(つまり福北ゆたか線の一部)が開通したことで大都市とのアクセスが飛躍的に向上し、通勤通学路線として生まれ変わりました。
落ち目の筑豊本線に博多が差し伸べた救いの手こそ、他ならぬ篠栗線だったわけです。
福北ゆたか線区間は直方駅で乗り換えになることが多いです。
直方~桂川~博多には快速列車が運転されていますが、通過駅はほんの僅かで、特に筑豊本線内では1つだけ(勝野駅)です。
また同区間には1日1往復の特急「かいおう」が設定されていて、これが現状筑豊本線を走る唯一の優等列車です。
折尾~桂川の所要時間は50分程度で、本数は相変わらず1時間に2本、新飯塚からは3本に増えます。
ロングシートの車両もありますがトイレは設置されています。
乗車記:「前任者」の遠賀川に沿って
複々線だった区間
若松から乗った列車は直方行きだったので、折尾で乗り換えはありませんでしたが、私以外は全員折尾で降りて乗客が入れ替わりました。
愛称名が変わるだけあって、実質的には別の列車となったと言ってよいでしょう。
10分ほどの停車時間に蓄電池電車は充電中のようでした。
折尾駅を出ると大きく左に曲がりながら鹿児島本線の下をくぐり抜けます。
相変わらず車内は空いていますが、筑豊炭田の各地から集めた石炭を積んだ貨物列車が沢山走ったであろう線路は、錆びつきながらもその時代の面影を必死に保とうとしています。
複線でも過剰設備な印象のある路線ですが、折尾~中間はなんと複々線だった時代があり、それを複線にして一部線路を撤去した跡にできたのが東水巻駅です。
そんな経緯を反映して、ホームはデルタ型になっています。
次の中間駅も2面のホームを有し、構えだけは立派です。
かつてこの駅から国鉄香月線が分かれていました。
中間駅を出るとすぐに遠賀川を渡ります。
鉄道開通以前は石炭輸送の主役を担っていたこの川に対して敬意を表するかのように、筑豊本線の電車はゆっくりと渡っていきます。
やがて山陽新幹線の下を通ります。
小倉~博多の駅間は67㎞(在来線に準拠した距離)。
途中に駅があってもおかしくない長さですが、新幹線は落ちぶれた筑豊本線など見向きもせずに通過していきます。
筑前植木駅も古めかしい趣のある駅です。
ホームとホームの間を、昔は貨物列車が走っていたのでしょうか。
列車の終着となる直方駅に到着です。
貨物列車の集積地だった駅で、今でも広大な車両基地があります。
分岐していた複線の国鉄伊田線は、平成筑豊鉄道伊田線として残っています。
なお戦後まもなくは、蒸気機関車に給水するために、市の水道が市民に対しては時間給水を行っていた時期もあったそうです。
通勤路線色が強まるも線路は単線に…
この駅で博多行きの列車に対面乗り換えです。
今度は4両編成の電車で学生がちらほら乗っていました。
遠賀川沿いの平坦な道を進んでいき、小竹駅を過ぎて川を渡ります。
運転系統が変わり博多行きの列車が設定される直方からは、次第に住宅が増えていきます。
くたびれた筑豊本線から通勤路線として再生した福北ゆたか線へと、その性質が変化していく様子が感じられます。
またそれは2つの政令指定都市を繋ぐ福北ゆたか線にあって、大都市の中でも速いペースで人口が増加する福岡市と、逆に人口が減少傾向にある北九州市の「力の差」の反映でもあります。
新飯塚駅からは後藤寺線が分岐しています。
乗客もさらに増え、都会の近郊らしい雰囲気になってきました。
「これから忙しくなる!」という段階にもかかわらず、なんと飯塚駅から先は複線から単線になってしまいます。
石炭積出という筑豊本線本来の目的を考えれば自然ではありますが、現在果たしている役割からすれば逆であるべきです。
桂川駅に到着。列車はここから篠栗線に入ります。
私も実際はこのまま博多に向かったのですが、本記事では篠栗線の乗車記は割愛します。
原田線
キハ40系運用が残る
原田線の運転本数は他の区間と比べて非常に少なく、1日9往復(うち1往復は土日のみ)だけです。
なお、折尾~原田の距離は鹿児島本線経由の68㎞に対し、筑豊本線経由では55㎞と実はショートカットしています。
昔は大阪から九州の寝台特急「あかつき」の一部が筑豊本線を経由していましたが、今は当然そんな列車は無く、1両の古いディーゼルカーが暇つぶしに往復していています。
前章で述べた通り、篠栗線が開通したことで飯塚・直方から博多へは同路線の利用が格段に便利になり、原田線からするとほとんどの需要を吸い取られてしまった形です。
原田線の距離は約20㎞で、所要時間は30分弱です。
乗車記:冷水峠を越える
当パートでは原田→桂川の乗車記です。
原田駅(九州の地名では「原」を「はる」と読ませることが多い)はカーブの途中にある駅で、特急「かもめ」が高速で通過していきます。
そんな鹿児島本線の駅の0番乗り場に、ひっそりと1両のディーゼルカーが停まっています。
乗っているのはざっと10人くらい。
暇そうな中高年がほとんどですが、彼らとて平日の11時に敢えて原田線に乗る人間から暇人呼ばわりされたくないでしょう。
さて、丘陵地のやや高台に位置する原田駅を出ると、筑紫平野に降りていきます。
ローカル線ムードを期待して乗ると、予想外の展開に驚かされます。
がしかし、沿線にマンションが建ち並んでいるにもかかわらず、駅がありません。
住宅街を1両のディーゼルカーが素通りするのは、違和感があるどころかシュールです。
もっとも駅をつくったところで、ほとんどの人は西鉄で博多に行くのでしょうから、筑豊本線の利用客が大幅に増えるとも思いません。
一つ目の筑前山家駅はホームと線路跡が痛々しい田舎の駅でした。
その後は冷水峠越えが始まります。
ここが筑豊本線の中で唯一の本格的な山越えです。
鈍重な気動車は苦しそうに何キロにも渡る急勾配を登って行きます。
トンネルを抜け、穂波川を右手に見ながら今度は下っていきます。
駅はあいにく荒れ果てた姿ですが、民家は結構立派なものが多いようです。
だんだんと谷が広がっていき、目立って住宅が増えてくると終点の桂川駅です。
斜陽路線の行き先は廃止のみにあらず
筑豊の炭鉱が閉山され、20世紀前半~中盤の日本の工業化に大いに貢献した北九州工業地帯が衰退して久しい今、筑豊本線はもはや余生を送っているような感傷を我々に与えます。
本記事でさんざんしてきたように、それらをいとし気に撫でさするのも一つの楽しみ方でしょう。
しかし一方で、福北ゆたか線のように新しい役割を見つけて輝きを取り戻した、筑豊本線のもう一つの側面も忘れてはなりません。
既存の路線を積極的に活用した事例として、筑豊本線は将来の鉄道のあり方にとって示唆に富んでいます。
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