ルーマニアとウクライナに挟まれた東欧の小国モルドバ。
民族も言語もEU加盟国のルーマニアと同じにもかかわらず、ロシア帝国・ソ連の一部としての歴史も歩んだ不思議な国である。
その首都キシナウでは、ルーマニアやヨーロッパを希求しながらもソ連時代の建物が中心部で支配的に建ち並ぶという、この国の屈折した姿を見ることができる。
2026年4月下旬、キシナウに丸1日滞在した。
キシナウの日常
ブカレストからの夜行列車を降り、食堂車で出会った人々と別れを交わし、市内バスに乗った。
初めて訪れる国だからそれなりに不安は感じるものだが、新しいバスに”isuzu”と書いてあるのを見ると幾分ホッとした。
突然、60歳前後の男性に声をかけられた。
こちらに手を差し出しているので物乞いかと警戒してしまったが、よく見るとチケットのようなものを持っている。
つまり男はバスの車掌で、車内で彼に運賃を支払うというシステムだったのだ。

ホテルへは市中心部で降りてから細い道を10分程歩く。
道は舗装がデコボコで、スーツケースでは苦労した。
キシナウは治安の悪い都市ではないものの、住宅街にも野良犬が多いのが気になった。
チェックインの時間はまだなので、スーツケースだけ預けて観光を開始しよう。
ホテルの近くには中央市場があった。
朝の買い物をする人たちで活気がある。
野菜・果物やチーズ売り場が多かった。
値段が書いてあるが売られている単位が分からないので、実際にどれくらい安いのかは判断できない。
市場を囲む沿道でも人々が露店を出して、皿や飲料水など様々な日用品を売っていた。
驚いたのが商品のパッケージにはルーマニア語(モルドバの公用語)の他に、キリル文字(つまりロシア語)で書かれたものもかなりあったことである。
実際に老若男女問わずロシア語の会話をよく聞く。
中心部に戻り、バスターミナルの食堂に行ってみる。
トレーを持ってカウンターに並ぶ料理を指さして注文するスタイルで、早く・安く現地の食を体験できるので、私はこういう所が好きである。
昼間からビールを何本も飲んでいる男性が何人かいて、いかにも地元の大衆食堂といった雰囲気だ。
鶏の内臓肉(?)と野菜のたっぷり入ったスープ、そばの実をお粥にしたもの、そしてベリーのドリンクを注文した。
優しく素朴な味わいだ。
合計で百数十レウ、つまり1,000円程度。
モルドバの一人当たりGDPは日本の1/6、ドイツの1/10なのだが、期待したほど安くなかった。
旧ソ連型の都市を歩く
他のヨーロッパの首都と違って、キシナウには古い街並みが保存された旧市街というものがない。
広い道路に沿ってマンションやホテルが続いている。
それらは全く無機質というわけでもなく、多少はデザインに遊び心は感じられるが、そのおかげで無味無臭の建物よりも古臭さを放っている。

目抜き通り沿いに駅の方へ歩いて行くと、廃墟になった大きなホテルがあった。
全体に塗られたモルドバの国旗と同じ青・黄・赤の3色はかすれ、大きな建物は亡霊のように建ちつくしている。
誰が描いたのか、上層階の方まで落書きがしてあった。
土台の柱は腐食が進んでいて危険である。
こんなものが市内の好立地にあるのは、まるで衰退した地方都市のようで寂しい。

その近くにはスターリン様式と呼ばれる重厚で上が尖った建物がある。
こちらは現役の老舗ホテルだった。
手前のヒロイックな彫像はモルドバ解放記念碑というらしい。
ルーマニア語とロシア語で説明が書いてあった。

もう少し新しいソ連建築によるホテルの前にも騎馬像がある。
グリゴリー・コトフスキーというモルドバ出身の軍人革命家で、ソ連内部でのモルドバ自治共和国建国に貢献した。
現在のモルドバ共和国のルーツである。
もっとも、その動機はバルカンに革命を広めるためであった。
つまりキシナウ市民にとって彼は「祖国の基礎を築いた功労者」であるとともに、「共産主義を押し付けたソ連の軍人」という複雑な人物なのだ。

しかし、そうした彫像が残っているのは良いことだと思う。
それは単に「観光客として面白い」次元の話ではなく、善悪にかかわらず自分たちが歩んできた歴史に対して忠実であるということなのだ。
有名観光地よりも政府機関
次にキシナウ観光で最も有名な凱旋門とナスレテア大聖堂を見に行く。
両者は近くにあるので、凱旋門のアーチ越しの大聖堂というアングルが映え写真の定番らしい。
そんなことはともかく、大聖堂内部は金の唐草模様がひときわ目立っていたが、外観はシンプルである。
モルドバ正教会の総本山で、東方正教には珍しく文字がキリル文字(ロシア文字)ではなくアルファベットになっていた。


凱旋門は交差点ではなく歩道にかかっていて、パリやブカレストのものと比べてとても小さい。
最初は本物のミニチュア版かと思ってしまったほどだ。
正直なところ、凱旋門と大聖堂がキシナウ観光のハイライトだと言われても、そのスケールからはソ連かルーマニアの地方都市なのだなとしか思えない。

だからといって、私はキシナウがつまらない街だと言っているのではない。
月並みな「観光名所」という「点」ではなく、抜け出したいはずのソビエト時代の雰囲気を色濃く残す町並みの独特な「雰囲気」こそ、キシナウの魅力なのである。
凱旋門からさらに大通りを進むと、政府系機関が建ち並ぶ区画となる。
社会主義建築が興味深く感じられるのは、極限なまでの堅苦しさのなかで建築家の個性・表現がほとばしっているからなのだろうと私は思う。
たとえその背景となる思想が邪悪であったとしても、その崇高美で見る者を酔わせてしまうのだ。
これぞ芸術が善悪を越えた偉大な存在たるゆえんである。


その一帯の近くの公園には、モルドバの国旗と並んでEUの旗が掲揚されていた。
まるでモルドバが既にEU加盟しているように誤解しかねない。
ヨーロッパへの情景が見て取れるが、圧倒的なソ連時代の建築物を鑑賞した後では、いかにも健気に映ってしまう。

ホテルの晩酌用のワインを買いにショッピングモールに立ち寄った。
綺麗な店内にはEUからの商品が並んでいる。
朝訪れた中央市場とは別世界のようだった。
夕食はレストランでビーフストロガノフを食べた。
付け合わせはポテトでも米でもなく、昼食と同じ蕎麦の実だが、野菜と一緒に炒めたピラフになっている。
ビーフストロガノフのクリームソースも相まって、全体的にかなり油っこい。
そんな料理に立ち向かうのが渋味・酸味豊富なる赤ワインである。

ロシア文化を強く感じる料理とヨーロッパ的なワインが口中で激しく対峙して、その場をしなやかに引き締める。
これがモルドバという国なのだ。


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