2025年3月に「青春18きっぷで山陽本線乗り歩きの旅」と題して、岡山駅を起点に途中下車しながら山陽本線の普通列車を乗り継いで西へ向かった。
予定では本州の西の端、下関駅まで行く予定だったが、事情により山口市で引き返さなければならなくなり、それ以来やり残した宿題にとりかかる機会をうかがっていた。
そして6月中旬にそのリベンジを果たすこととなる。
せっかくなので前回訪れなかった都市にも寄りながら2日間かけて、改めて「続・山陽本線乗り歩きの旅」を終わらせようと思う。
下関駅は鉄道交通の要衝
防府駅から各駅停車で2時間弱、ついに下関駅に着いた。
事実上山陽本線と山陰本線が合流し、九州への入り口でもある海峡の駅だ。
海峡の長さは全く違うが、本州の反対側にある青森駅と似た構図である。
なお山陽本線はこの先九州の門司駅が終点だが、下関駅を境に管轄がJR西日本からJR九州になる。

かつて九州行きブルートレインが運行されていた時代は、ここで機関車交換が行われていた。
私も学生時代に熊本行き「はやぶさ」を利用した時に、九州行きの「儀式」を見学したものだ。
上り「あかつき」のレガードシート(座席車)に乗るために、一人で深夜何時間もここで過ごしたこともあった。
また、戦時中の1942年に突貫工事で関門トンネルが開通するまで、下関駅は朝鮮・中国への最前線だった。
下関と釜山を結ぶ連絡船が運行され、朝鮮・満州へと多くの人々が往来した。
良くも悪くも、下関駅は大日本帝国における交通の一大拠点だったのである。
そのことを念頭に、これから下関を観光することにしよう。

国際性と歴史豊かな下関を観光
下関観光の中心となるのは、駅からバスで5分ほどの唐戸である。
桟橋には対岸の門司(福岡県北九州市)や剣豪の決闘で知られる巌流島へ行く船が出ている。
唐戸市場はとにかくフク(フグ)推しだ。
柳井の金魚ちょうちんといい下関のフクといい、山口県の人はふっくらとした姿の魚が好きなのだろうか。
そして唐戸交差点の歩道橋の上からは旧下関英国領事館・旧秋田商会ビル・下関南部町郵便局庁舎といった近代西洋建築を一望できる。

昼食を済ませて、まずは旧秋田商会ビルへ。
秋田商会は港湾都市下関を拠点として台湾・朝鮮・中国でも活動を営んだ会社だった。
この建物は1915年(大正4年)に竣工し、鉄骨鉄筋コンクリート造りの事務所建築としては西日本最初のものらしい。
中へ入ると1階は白亜の壁・柱・天井を持つ洋風の明るい事務所になっている。
そして毛利藩の家紋と同じデザインの社章を付けた階段を登ると、2階と3階はなんと純和風である。
開放的な1階とは対照的に、住居として使われた和室はいかにも閉塞的な雰囲気だ。
不意にガラスケースに入った日本人形を見ると冷や汗をかいてしまう。
秋田商会ビルをさらにユニークにしているのが、屋上にある日本庭園と茶室である。
こちらは残念ながら一般公開されていない。
1階には展示コーナーにある昔の写真からその様子が窺える。


その次は隣にある郵便局庁舎。
ここは現役の郵便局として利用されている。
もっともらしい用事があるふりをして内部をみたかったので、つい先ほど預け入れたばかりの貯金をまた引き出した。
当然ながら内装は綺麗にされているが、1900年に建てられた国内最古の郵便局の局舎らしい面影を強く残していた。
また歩道橋を渡って旧英国領事館へ。
下関には英国を含め8か国の領事館が開設されたというから、その国際性の高さを物語っている。
領事業務は太平洋戦争が勃発した1941年まで続いた。
外観や庭だけでなく、内部も無料公開されていて上品な館内を散策できる。

2階は自由に見学できるティールームになっていて、せっかくなので紅茶で休憩した。
砂時計の砂が落ちきるのを待って、ポットで提供された紅茶をカップに注ぐとマスカットの香りが立ち昇る。
今まで慌ただしく旅程をこなしてきたので、なおさら贅沢に感じるティータイムだった。


海岸沿いに東へ数分歩くと春帆楼という旅館に着く。
1895年の日清戦争の講和会議が開かれ、下関条約が締結されたのがこの場所である。
隣接して日清講和記念館があり、講和会議が行われた部屋を再現したセットを中心に、周囲には遺品や資料などを展示している。
私の他に中国人の夫婦が見学していたが、二人がどんな会話をしていたのかは気になる。
ちなみに春帆楼は現役の旅館なので用事もなく立ち入らないようにしよう。


赤間神宮は記念館のすぐ傍にある。
壇ノ浦の戦いで平家一族と共に8歳にして海に沈んだ安徳天皇を祀る神社である。
入り口の水天門は、安徳天皇を抱いて入水した二位尼(平清盛の妻)の辞世の句「波の下にも都ありとは」にちなんで、竜宮城をイメージしているらしい。
しかし、これも因果なのか、水天門を見て私は昨日訪れた厳島神社を思い出してしまった。
栄華の絶頂期に厳島神社を現在の寝殿造りにした平清盛が、それから20年足らずのうちに一族もろとも自身の妻が幼帝を抱いて瀬戸内の海に没するとは思うまい。


赤間神宮の正面に安徳天皇と二位尼のモニュメントがあった。
まるで聖母マリアとイエスを思わせる彫像だ。
これから現世で死にゆく二人は、天上の、否、海底の世界へと発っていくようだった。

さらに東へ、関門自動車道の下をくぐるとみもすそ川公園に着く。
山陽新幹線もこの近くの地下を走っている。
ここが壇ノ浦古戦場跡で、八艘跳びの源義経と碇を持った平知盛の臨場感溢れる像がある。

そしてこの地は、時代が下って幕末の1863~64年に四国連合艦隊との下関戦争で活躍した砲台跡でもある。
当時の長州砲のレプリカが海峡を向いて並んでいる。
また東屋の下には本物も展示されていた。
コンテナを満載した大型船から小さな漁船まで、様々な船が行き交っている。

壇ノ浦合戦は古代から中世、下関戦争は近世から近代への変わり目である。
下関は時代の転換期の舞台となってきた。
もし不穏な外国の艦隊がこの海峡を航行するようなことがあれば、その時に1945年から続く平和な日本は終わるのかもしれない。
これで下関観光を終えよう。
下関駅に着いてから昼食も含めて4時間半程度の滞在だった。
帰りの北九州空港発の便に間に合うには、下関駅を19時半ごろに出ればよい。
残りの2時間弱は居酒屋で祝杯を挙げた。

下関駅に戻り、山陽本線の旅の仕上げとなる九州方面行きの電車に乗って小倉駅へ。
ちなみに、山陽本線の終点は九州へ渡った先にある門司駅である。
だから下関観光の延長で門司港レトロに行っても「ルール違反」にはならないわけだが、鉄道好きの私の中では門司港は「九州の始点」という位置づけなので、山陽本線乗り歩きにはそぐわない、ということにしておこう。
以上、岡山(備前)を出発点に倉敷(備中)・福山(備後)・尾道・西条(安芸)・広島・宮島・岩国(周防)・柳井・防府・山口、そして下関(長門)と山陽本線の各県・各国の街を巡った。
途中下車の魅力はもちろん、沿線風景・車両の快適さ・ダイヤといい、改めて山陽本線の普通列車旅は恵まれているなと思う。
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