【魏志倭人伝七ヵ国周遊紀⑦】4日目前半、筑肥線で博多から糸島を経て唐津へ

旅行記

私はこれまで30年にわたって鉄道ファン、さらに詳細なカテゴリーで言うと「乗り鉄」をやってきた。
だから旅行に行くにしても鉄道に乗ることがまず念頭にあって、それに付随してその土地の風物に接するというのが形式であった。

しかし最近は史跡にも興味を持ち始め、鉄道とは全く無縁の対馬に行きたくなった。
となれば、帰りは壱岐を経由して福岡に戻り、ついでに「魏志倭人伝」ゆかりの筑肥線の沿線等を巡ろう…と考えつくのは、多少歴史に興味を持った乗り物好きなら当然の成り行きである。

然るに2024年10月中旬、6日間の日程で魏志倭人伝に登場する七ヵ国、すなわち対馬国・一支いき国(壱岐)・末盧まつろ国(唐津)・伊都いと国(糸島)・国(福岡)・不弥ふみ国(宇美)そして投馬国(佐賀)を周った。
なお、不弥国と投馬国の所在は諸説あり、それについて学術的に説明する知識も能力も私にはもちろんないが、参考までに吉野ケ里歴史公園の特別展「邪馬台国と伊都国」でこの説が紹介されていた。

魏志倭人伝諸国
国土地理院の地図を加工して利用

本記事では博多駅から筑肥線の電車に乗り、伊都国こと糸島の史跡と博物館を見た後、その先の末盧国こと唐津(佐賀県)に至る。
下のマップで赤いマーカーで示したのが今回訪れた場所である。

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筑肥線で伊都国へ

博多駅7時22分発の福岡市営地下鉄に乗る。
地下鉄の終点姪浜めいのはま駅からはJR筑肥線に変わるが、両社は相互直通運転を行っている。
朝ラッシュ時間帯のわりにはさほどの混雑でもなく、立っている人がちらほらいる程度である。
もっとも反対方向(博多行き)の電車は超満員だった。
姪浜駅は依然としてビルが建ちならんでいるが、今宿駅の手前で線路は海沿いに出て車窓風景は一変した。
その後住宅地を走り、周船寺すせんじで下車した。

伊都国を訪れるにあたって、まず最初に伊都国歴史博物館に行こうと思っていた。
ここは筑肥線からのアクセスが悪いが、幸い周船寺駅からのバスがちょうど開館時間に博物館の前に着く。
乗り換えのついでに丸隈山古墳に行く。
伊都国の時代とずれるが、福岡市最大の前方後円墳で駅からも近い。

閑静な住宅地に囲まれた小高い丘が丸隈山古墳だ。
階段を登って石室の中を覗く。
石室は小さな石を積み上げで造られていて、ダブルベッドのような石棺が鎮座する、いかにも古代の神聖な墓といった雰囲気だった。

自転車で通学する学生と頻繁に会った。
やはり発展している地域は若者が多い。

周船寺駅に戻り、スクールバスのような黄色いコミュニティバスで伊都国歴史博物館へ。
入り口のある新館と旧館から成り、幾つかの展示室があるが、ここで見るべきは新館の3階にある「伊都国の世界」である。
この近くにある平原王墓の出土品を中心に遺跡の模型などがある。
特に圧巻なのが直径40㎝を越える銅鏡の数々で、ガラスケースに展示されているものは全て国宝に指定されている。

また4階に上がると、南北を山に、東西を海に囲まれたこの地を見渡すことができる。
この辺りは大昔は海で糸島半島も島だった。
魏志倭人伝の時代でも東西の入り江は今より深く切れ込んでいたとされ、伊都国は「一大率」に代表される倭国有力者や魏からの使者も駐在した要地だったことが記されている。

タクシーを呼んでもらい、40もの銅鏡が出土した平原遺跡へ。
原っぱのような芝生の公園に王墓がある。
先ほど見た巨大な銅鏡とは対照的に、王墓は地面がやや盛り上がっている程度の小さなものだった。
副葬品に武器がほぼなく、代わりに装身具が多かったことから、この王墓は女性のものだとされていて、卑弥呼や天照大神あまてらすおおみかみなどその「候補者」の顔ぶれはそうそうたるものである。
辺りにはコスモスが咲き乱れていた。
やはり女性的な雰囲気の歴史公園だ。

待たせた車に乗り波多江はたえ駅(周船寺駅の次)まで行ってもらった。
ここから志登支石墓群しとしせきぼぐんまで歩く。
「支石墓」というのは弥生時代早期~中期にかけての墓で、地中に埋葬してその上に大きな石を被せたものである。
その形態と出土品から、大陸・朝鮮よりもたらされた弥生文化の始まりを示す遺跡だという。
供養か目印か、上石に塩の塊が置かれている。
糸島富士こと可也山かやさんが見事な借景になっていた。

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県境を越え末盧国へ

波多江駅に戻って筑肥線の電車に乗り、糸島市の中心にある筑前前原ちくぜんまえばるで国鉄時代の古い車両(103系という今や珍しい車両)に乗り換え。
今度の電車は空いていた。
ここは敢えて「モハ」(モーター付き車両)を選んで乗車する。
懐かしいモーター音と固い揺れを五感で味わいながら、やはり鉄道に乗るのはいいなと改めて思う。

しばらくは昔海だった平地を走り、筑前深江駅を過ぎるとまた海沿いに出る。
とりわけ県境の鹿家しかか駅~浜崎駅間は車窓ハイライト区間で、屈曲する唐津湾の先に虹の松原を臨むダイナミックな景色が広がる。
その後列車は虹の松原のすぐ傍を走るが、近すぎてただの長い松林にしか見えない。
高架の東唐津駅を出ると松浦川を渡り、河口に堂々とそびえる唐津城を拝む。

11時57分、唐津駅着。
珍しい車両に乗って車窓を楽しみつつ途中下車して史跡・博物館巡りができる筑肥線は、鉄道ファンにも旅行好きにも歴史好きにも嬉しい路線である。

さて、唐津には唐津城を筆頭に辰野金吾記念館など近世・近代の観光地が多数あるが、いずれも行ったことがあるので割愛する。
今回の旅行の趣旨に合致する古代の史跡は、駅から徒歩15分程度の菜畑遺跡である。
ここはなんと日本最古の水田跡で、2600年以上前、つまり縄文時代後期のものであることが分かっている。
当時の水田を再現した区画がある。
5m四方の狭い田んぼで、赤くて小さな実をつけた稲はかなり背丈が高かった。
栽培は難しかったとみえ、夏季の台風のためかことごとく倒れてしまっている。
また単位面積当たりの収穫量は小さかったようで、パサパサした食感だったらしい。
現代の我々が食べたり酒にしている米が、長年の不断の努力によっていかに優秀な品種になったか痛感させられる。

遺跡には「末盧館」という資料館があり、遺跡からの出土品が分かりやすい説明と共に展示されている。
当時の人々は稲作だけでなく漁撈や豚の飼育も行っていたらしい。
豚は多産=繁栄の象徴として、儀礼的な存在でもあったようだ。

教科書では「弥生時代に稲作が始まった」と教わるが、その常識を覆す存在である。
私以外に訪れる人はいなかったが、唐津に来たら是非足を運んでほしい。
余談ながら、歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリ氏はベストセラーになった「サピエンス全史」で、「農業革命(日本に当てはめれば稲作伝来だがここでは小麦の栽培)による人類進歩というのは夢想で、本来雑食だったヒトはカロリー摂取の大半を僅かな品種に頼ることで飢餓リスクが高まり栄養バランスも悪化した。農業革命とは史上最大の詐欺であり、私たちが小麦を栽培化したのではなく、小麦が私たちを家畜化したのだ。」という内容のことを述べている。
誠に痛快な見解ではあるが、末盧館で人々の生活を垣間見た限りではそこまで「稲の家畜」的な暮らしとも思えなかった。

次回の4日目後半は縄文時代から一気に飛躍して、近世初期の朝鮮出兵の拠点となった名護屋なごや城へバスで向かう。






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