【魏志倭人伝七ヵ国周遊紀③】対馬2日目前半、万松院・万関橋と博物館めぐり

旅行記

私はこれまで30年にわたって鉄道ファン、さらに詳細なカテゴリーで言うと「乗り鉄」をやってきた。
だから旅行に行くにしても鉄道に乗ることがまず念頭にあって、それに付随してその土地の風物に接するというのが形式であった。

しかし最近は史跡にも興味を持ち始め、鉄道とは全く無縁の対馬に行きたくなった。
となれば、帰りは壱岐を経由して福岡に戻り、ついでに「魏志倭人伝」ゆかりの筑肥線の沿線等を巡ろう…と考えつくのは、多少歴史に興味を持った乗り物好きなら当然の成り行きである。

然るに2024年10月中旬、6日間の日程で魏志倭人伝に登場する七ヵ国、すなわち対馬国・一支いき国(壱岐)・末盧まつろ国(唐津)・伊都いと国(糸島)・国(福岡)・不弥ふみ国(宇美)そして投馬国(佐賀)を周った。
なお、不弥国と投馬国の所在は諸説あり、それについて学術的に説明する知識も能力も私にはもちろんないが、参考までに吉野ケ里歴史公園の特別展「邪馬台国と伊都国」でこの説が紹介されていた。

本記事は2日目前半、対馬観光の最終回である。
厳原観光のハイライトである万松院ばんしょういんと対馬博物館を訪れ、その後路線バスで足を延ばして万関橋まんぜきばしを見に行った。
下のマップにおいて青いマーカーで記したのが、今回訪れた場所である。

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静寂で荘厳な万松院

2日目の朝、事前の雨予想に反して晴れていた。
8時半頃ホテルを出て、まずは厳原観光のハイライトでもある万松院ばんしょういんに行く。
この寺院には対馬藩宗氏の歴代藩主の墓がある。
宗家は鎌倉時代から江戸時代まで対馬を支配していた氏族である。

創建以来の山門は両側の間が朱色に塗られ、全体として力強い印象を与える。
まずは本堂に入る。
内部には朝鮮国王から寄贈されたという三具足が飾られ、奥には代々徳川将軍の位牌もある。

両側に石灯篭が並ぶ苔むした石段を登って宗氏の墓所へ。
藩主だけでなく、その夫人や家来たちの墓もあり、その雰囲気も相まって圧巻だった。
とりわけ大きな墓なのが最初の3代の藩主で、朝鮮出兵後の難しい国際情勢のなかで朝鮮国王と徳川幕府の間で板挟みになりながら、両者の間を取り持った彼らの功績を讃えている。
静かで厳かな場所である。
ここに佇むだけで対馬はそうそうたる歴史・文化を有する島だということが分かるだろう。
むしろ、北海道のほうが離島ではないかと感じる。
創建以前からここにあった巨大なクスノキが今も宗家と対馬を見守っていた。

次に対馬博物館を訪れる。
2022年に開館した新しい博物館で、古代・中世・近世の3つの時代に分けて対馬の歴史を紹介している。
特に興味深かったのが近世の朝鮮外交における対馬藩の処世術だった。

平地の少ない対馬では農業は振るわず、対馬藩の収入は朝鮮との貿易に頼らざるを得ない。
しかし江戸時代初期は秀吉の朝鮮出兵後ということもあって、日朝関係はギクシャクしていた。
そこで対馬藩は両国間でやり取りされる文書や印を偽造してまで、お互いのメンツが立つようにして貿易や朝鮮通信使を円滑に実現させたという。
その後密告によって偽造は幕府の知る所となるわけだが、対馬藩の果たす役割に免じて大目に見られたという。
あの万松院の初代~3代目藩主に対する格別の敬意も、この対馬藩の存亡をかけた血のにじむような努力に対してなのだろう。
なお、対馬博物館は近代も扱っているが、こちらはおまけ程度の内容だった。
対馬博物館の見学時間はゆっくり見て1時間強だった。

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バスで万関橋へ

これから路線バスに乗って万関橋まんぜきばしを見に行く。
1901年、来るべきロシアとの戦争に備えて日本海軍は、対馬の入り組んだ湾の地峡を開削して万関瀬戸という運河をつくった。
この万関瀬戸に架かる橋が万関橋で、現在の橋は1996年に架けられた。
1日目前半で訪れた金田城に砲台跡があったのもそのためである。

ツシマヤマネコが描かれたバスに乗車。
韓国人旅行者数組に交じって地元の人もいた。
昨日の観光タクシーではトンネルで通過した区間も、路線バスは海側の集落に立ち寄るために遠回りして走る。
新幹線と在来線の関係のようだ。
途中で対馬空港を経由する。
「空港」というよりは「飛行場」のように小さな施設で、韓国人のグループはここで降りなかった。

バスからの車窓

厳原から45分程度、お目当ての赤い万関橋を通って次の停留所「万関」で下車。
1000円弱の運賃を払おうとすると、運転手が「帰りも乗りますか?」と聞く。
乗ると答えると、「それなら1日フリーパスがいいでしょう。これなら往復でも1040円になりますから」と言う。
これは相当安くなる。
1日フリーパスは対馬市内で有効とあるが、対馬市内=対馬全島である。
ちなみに、この路線の終点の対馬北部の比田勝まで行くと3000円以上かかる。
お得に使わせていただいている立場ではあるが、この1040円という価格設定は安すぎであろう。
昨日のタクシー運転手が言っていた通り「対馬の人は商売っ気が無い」なと思う。

バス停近くの高台に展望台があるので登ってみる。
複雑な入り江が目の前に広がるが、万関橋はあまり良く見えない。
ちなみにもう少し南に大船越という地名があり、その名前から推察される通り瀬戸になっているのだが、こちらは狭い海路が大きく屈折しているので、軍艦が航行するのに不適ということで万関瀬戸が開削された。

先ほどバスで通過した万関橋を歩いて渡る。
橋の上から万関瀬戸を眺めると、風が強く流れは速い。
これがもし天然の運河なら無邪気に自然の偉大な力を讃えて終わりだろうが、実際は人が造ったものである。
当時の緊迫した国際関係や時代背景など諸々、話は一気に複雑になる。

バス停付近に目星をつけていたレストランがあるのだが、「本日休業」の看板がかかっていた。
対馬に来てからは見慣れた文字だが、あいにく商売っ気が無いなと思う。
仕方がないので坂道を下って海に面した集落に向かう。
数隻の船が舫う小さな港を歩くと、万関瀬戸と橋が正面に現れた。
この静かな入り江を、黒い大きな軍艦が通る光景を想像していると雨が降ってきた。

バスで厳原のバス停に戻ったのが14時頃。
隣接する「観光情報館 ふれあい処つしま」には「つしにゃんキッチン」というレストランがあり、10時から16時半(15時半ラストオーダー)まで営業している。
臨時休業している店舗が多い対馬において、この時間からランチで利用できる施設は非常にありがたい。
アナゴなど魚を使った料理は昨日居酒屋で満喫したので、「ろくべえ」という郷土料理を注文する。
「ろくべえ」は蕎麦のような麺料理である。
その原料にはさつまいもが使用されていて、独特な滋味のある味わいとモソモソした食感が何とも個性的であるが、椎茸がよく利いた出汁は対照的にあっさりした香りだった。

フェリーまでまだ少し時間があるので、対馬朝鮮通信使歴史館へ。
朝鮮通信使節団が利用した船の模型の他、外交文書、両国の関係維持のために尽力した人々の足跡などが紹介されている。
日本に限らず、隣国同士というのは敵対までいかなくとも、何かしらの懸案を抱えていることがほとんどである。
質の低い政治家などはそれを利用して火遊びをするわけだが、一方で昔の良識ある人たちの交流が現在の日韓関係にも生きているのだと実感させられた。
だからこそ私は思うのだが、現在でもロシアとの文化交流を続けるべきだと思う。

対馬朝鮮通信使歴史館入り口

さて、もうすぐ15時だ。
15時25分発のフェリーで対馬から壱岐に行かなければならない。
急いで厳原港まで歩き、乗船申込書に記入する。
ただでさえ字が汚いのに急いでいたから、窓口で名前を聞かれた。
出航10分弱前に乗船、小雨の降るなか対馬を後にする。
今度来る時は今回訪れなかった上対馬(対馬北部)にも寄りたい。

厳原港を出港

対馬から壱岐へのフェリーの様子、壱岐の旅館での食事については次回の記事にて。




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