遠軽駅は石北本線の途中駅で、旭川駅と網走駅のちょうど中間くらいの距離にあります。
特急も停車しますが、かつては名寄本線がこの駅を起点としており、その頃の面影がよく感じられます。
なお遠軽という地名は駅の近くにある瞰望岩(インカルシ)に由来します。
名寄本線の面影残る風格ある駅構内
ホームと跨線橋
特急列車や特別快速「きたみ」が停車する改札寄りの1番乗り場と、跨線橋を介して島式ホームに2,3番乗り場があります。
降りてすぐに伝わってくる堂々とした風格は、この駅の古めかしさと大きさによるものでしょうか。
ホームには資材置き場も兼ねた事務所のような小屋があり、中には行き先表示板や雪かき道具などが置いてあります。
立派な跨線橋は木造で、歩くとミシミシ音がします。
多くの列車が改札に面した1番乗り場を発着するためか、あまり手入れがされておらず、ハチが飛んでいて少し危険な気もします。
ホームの先の方の入り口はベニヤ板で封鎖されていました。
注目すべきは乗換案内の電光掲示板。
よく見ると名寄本線が走っていた時代の「紋別・名寄方面」の文字が消されずに残っています。
改札口は電光掲示板ではなく、昔ながらの札を使ったやり方です。
構内には転車台と名寄本線の跡
「かつて鉄道の要衝であったことの象徴」を意味する転車台の跡が遠軽駅構内にはあります。
今や草むらが生い茂った一帯には、かつては機関車が忙しそうに出入りしていたのでしょうか。
遠軽駅はスイッチバック式の駅(詳細は後述)ですが、列車が来た先の方向にも線路が続いています。
これは1989年まで走っていた名寄本線の線路跡です。
この時期には赤字路線が多数廃止されましたが、「本線」を名乗る名寄本線の廃止は沿線住民にとってはショックだったそうです。
1番乗り場があるホームの先には、名寄本線の列車が発着していた0番乗り場の跡があります。
また駅の近くにあるバスターミナルから旧名寄本線の中湧別や紋別に行くことができます。
駅舎も立派
駅構内もさることながら、駅舎も立派です。
現在の駅舎は昭和9年に改築されたものです。
少しだけ駅前を見下ろすような位置にあるので、より一層存在感を感じさせます。
また駅前の階段には正面から見ると花の絵が描かれています。
歴史ある重厚な駅舎とかわいらしい花の絵のギャップがなんとも奇妙で可笑しいです。
そば屋も駅弁もなくなった
以前は駅弁の「かにめし」が販売されており、特急「オホーツク」でも車内販売スタッフに事前予約すると遠軽駅で積み込みして購入することができました。
私も10年前、車内で食べたのを覚えています。
しかし、現在では駅弁業者は撤退してしまいました。
またその後も駅そばが営業していましたが、ここも閉店したようです。
途中駅なのに遠軽駅でスイッチバックする理由
さて、遠軽駅は途中駅にもかかわらずスイッチバック式の駅です。
こうした構造の背景には、石北本線の歴史が関係しています。
網走までの鉄路の歴史
道央から網走に至る道は、大正1年のこと、根室本線の池田から北見(旧・地北線、第三セクター移行後廃止)を通る網走本線経由に始まります。
そして大正10年には、宗谷本線の名寄から遠軽・北見を経由して網走に至るルートも主要な地位を築きました。
つまり、遠軽駅は名寄~遠軽~網走というルートを前提に設計されたので、石北本線を乗りとおすには進行方向を変える必要があるのです。
一方で旭川側から遠軽まで(石北東西線)は、石狩と北見の分水嶺となる石北トンネルの存在のために、鉄道が開通するのは昭和7年まで待たなければなりませんでした。
石北(東西)線・湧別線・網走本線が統合して石北本線に
さて、昭和7年に旭川~遠軽が石北東西線として開通した時には、(下湧別~)遠軽~北見が湧別線、北見~網走が網走本線と称されていました。
結局、網走までのメインルートが一新されたのを機に、これら3つの区間をまとめて現在の石北本線に統合されたのです。
遠軽駅のスイッチバック構造は、こうした北海道の鉄道建設の複雑な歴史を反映しています。
名寄~遠軽間の名寄本線が廃線となり、今やスイッチバックする意味が無くなっているのも一層時代を感じさせます。
歴史を語る駅
日本全国でもそうですが、北海道はとりわけ、残念ながら「昔栄えていたが、その面影を残して寂れた駅」が沢山あります。
宗谷本線の音威子府駅や留萌本線の留萌駅、そして函館駅もこの部類に入るでしょう。
100㎞を超える本線だったはずの名寄本線を失い、残った石北本線も特急のサービス縮小と駅の廃止が続く中、遠軽駅もこうした栄枯盛衰を物語る存在としての魅力に溢れています。