満洲…
日本人にとっては、純粋に地理的な意味での「中国東北部」にはない、浪漫や憧憬、そして後ろめたさが交錯する不思議な力がこの言葉にはある。
そんな「日本の新大陸」を象徴する存在が、南満洲鉄道(満鉄)である。
単なる鉄道会社にとどまらず、植民地経営全般を幅広く手掛けていた。
現在でも線路・設備や建物など、その遺産は至る所に残っている。

鉄道と近代史が共鳴し合う強烈な光(とその影)に引き寄せられた私は、2026年9月上旬に満洲を実質7日間旅行した。
本記事は第10回。
鉄路の十字路、すなわち中国と朝鮮が交わる瀋陽市(沈阳)の北朝鮮レストランに足を踏み入れた。
⚠️注意
自然な文章にするため、実際の旅行における時系列は一部前後させています。
また当サイトでは、「戦前の日本及び現代の中国・ロシア・北朝鮮=悪」といった西側諸国特製の世界観は採用しません。
日本人でも入店できた
張作霖爆殺事件の現場探しを一旦諦め、中国最大のコリアタウンである西塔に流れ着いた。
漢字に負けないくらいハングル文字が看板を賑わし、通りにはチヂミを焼く屋台が所狭しと並んでいる。
ソウルの繁華街の明洞に来たような雰囲気である。
ふと目に留まった大きな建物の回転扉の向こうに、チマチョゴリ姿の女性が立っているのが見えた。
北朝鮮が経営するレストランのようだ。
好奇心が不安に打ち勝ち、私は重たい回転扉を押して館内へと入った。
記録として店名を明示しておくと、「牡丹館」という店である。
ちなみに、「地球の歩き方」に掲載されている「平壌館」はこの日営業していなかった。
なるべく警戒されないように、笑顔で「ニーハオ(こんにちは)」と入り口の女性に挨拶する。
生まれて初めて出会う生身の北朝鮮人である。
相手も快く応じてくれる。
しかし、私ができる努力もこれが全てだった。
中国語、続いて朝鮮語で話しかけられるも、当然ながら何も理解できない。
「ジャパン?」と尋ねられたので、そうだと答えると、彼女は両掌をこちらに向けて困惑した表情を浮かべた。
「やはり無理か」と思った。
北朝鮮レストランが日本や韓国など「敵性国家」の国民の入店を拒否するケースが多いことは前から聞いていた。
それでも私はそんな難しい事情は知らないふりをして、「食事をしたい」旨をジェスチャーで伝える。
事態が進まないので、仕方なく翻訳アプリを使うためスマホを取り出そうとした時、別の若くて愛想の良い女性がやって来た。
チマチョゴリや店の制服ではなく白いシャツ姿だったから、おそらくフロアリーダーだろう。
彼女は英語が通じたので、「一人ですが食事できますか?」と聞くと、あっさりと快諾して2階席に通された。
救世主の登場に感謝して階段を登りながら、「いけるもんなんやなぁ」と自然と呟いた。
言うまでもないが、カスハラ紛いのことは一切していない。
北朝鮮式ビールの注ぎ方に見とれる
店内は予想通り、昭和風大型ホテルの宴会ホールのような雰囲気だった。
中央部には丸いテーブルが幾つも置いてあり、私は端の方の長方形の相席を案内された。
レトロな店内とは対照的に、注文はQRコードで行うようだ。
温かいお茶と黒豆などの副菜が数種類出された。
韓国だと各種キムチだが、こちらの方が素朴な品々である。
中国語にしか対応していないので注文には苦戦した。
ウェイトレスを呼び止めて、注文画面に辿り着くまで手伝ってもらう。
「ありがとう」と言うと、表情も変えずに軽く会釈して去っていった。
写真と漢字を頼りに平壌冷麺と朝鮮ビールを選ぶ。
なお、中国では「北朝鮮」ではなく、「朝鮮」または正式な「朝鮮民主主義人民共和国」の表記を使う。
何とか決済まで完了。
時々ウェイトレスが心配そうにこちらの様子を覗いていた。
彼女たちは愛想はないが、接客は親切・丁寧だった。
それから噂通り、皆が美人だった。
先ほど手助けしてくれたウェイトレスがビール瓶を持ってきた。
コップを瓶の先で引っ掛けて器用に傾けながら注いでいく。
艶やかな黒い髪と色白肌にお淑やかな佇まいの彼女が、このようにクールなパフォーマンスをする姿に私は見とれてしまった。
「龍城ビール」という北朝鮮ブランドのビールは、驚くほど美味かった。
濃厚でかつ味のバランスも良い。
冗談抜きで、ドイツビールだと言われて出されても全く違和感のない完成度の高さである。
品質、そしてグラスへの注ぎ方ともに、北朝鮮のビール文化は世界水準と思われる。
平壌冷麺も運ばれてきた。
蕎麦かと思うくらい黒い。
玉子・肉・キュウリにキムチのような野菜も少し添えられているが、あまり辛くなく滋味深い味わいだ。
麺もコシがあって、食べ応えは十分だった。
ショーは撮影厳禁でもハグはOK?
そろそろ帰ろうか思っていると、前方のカーテンが開いて舞台が現れ、店内が暗転してミラーボールがカラフルに点灯した。
どうやらショーが始まるらしい。
チマチョゴリを着た女性が舞台に上がり、自国の国営テレビ放送を思わせる高らかな調子で挨拶をする。
そして深々とお辞儀をしてから、朝鮮民謡の「アリラン」を歌い始めた。
曲は途中でアップテンポになり、両手に華やかな扇を持った人も古風かつアクロバティックな踊りで加わった。
こうして場が盛り上がってくると、やはりというか、写真を撮ろうとする人がでてくる。
「もしかして写真撮れるんかな?」と思った矢先、どこからともなくガタイの良い男性が物凄い剣幕で走って来て、演者の前で両手をばたつかせながら仁王立ちして撮影を制止した。
ところで朝鮮歌謡曲というのは、特に高音において声帯から絞り出すような甘い発声を多用するようだ。
しかもマイクを入れて派手にビブラートさせるので、店内には大音量が鳴り響く。
そういえば、中国に来る時に経由したソウル仁川空港でも、曲調は全く違うが似たような発声で歌っているK-POPが流れていた。
伝統的なチマチョゴリに大時代的なビブラートで圧倒するのが北朝鮮式、現代風なファッションにセクシーなボイスで誘ってくるのが韓流、というべきか。
政治経済の分野ではもはや埋めがたいほど溝が生じた南北分断も、喉の奥ではまだ繋がっているのだ。
なおもショーは続く。
店員が舞台の正面の丸テーブルに陣取っているグループの一人に花束を手渡した。
すると花束を受け取ったオジサンは舞台に上がり、演奏者にそれを贈呈した。
おそらく何らかの事前手続きを行ったのだろう。
花束贈呈の儀式を何度か繰り返すうちにヒートアップし、やがて彼らは演奏者に軽くハグをし始めた。
観客も歓声と拍手で囃し立て、酒で顔を真っ赤にしたオジサンは満面の笑みを浮かべている。
撮影は厳禁だが酔っぱらいのハグは許されるらしい。
そんな異様な雰囲気の中でショーは1時間程続いた。
予想外に高かった高麗人参茶
食事とショー鑑賞を終えて帰る際に、1階の回転扉近くに北朝鮮の物産コーナーがあって、高麗人参茶も陳列されていた。
体に良いことは韓国で実感していたので、記念に一つ買って帰ろうかと思う。
従業員に頼みスマホ決済画面で金額を入力してもらうと、1杯分あたり500円程度の価格だった。
想像以上に高価で面食らったが、こんな所まできて怖気づくのは野暮である。
了承して決済を試みるもエラーになってしまった。
紐づけ先のクレジットカードが拒否されることは海外ではしばしばある。
幸い現金を多めに持っていたので、2階のカウンターで会計するよう案内された。
ここで後日談となるが、購入した「開城高麗人参茶」は漢方薬のように苦く、間違いなく高級品だった。
開城は良質な高麗人参の産地として知られている。
また、韓国の有名ブランドも同程度の価格なので、決してぼったくり商品ではない。
由々しきことに、北朝鮮産品は日本への持ち込みが禁止されている。
捨てるのは勿体ないので、中国滞在中は思う存分に高級健康茶を飲んだ。
さて、会計を対応したのは私を入店させてくれたフロアリーダーだった。
聞くと彼女は現地採用の中国人とのこと。
高額商品を買う上客とみたか、チマチョゴリ姿の従業員も付き添った。
気が緩んで日本人だとフロアリーダーに明かすと、片言の日本語で「私、日本のアニメ好きです。」と微笑む。
それにしても、「敵性国家」の日本人を入店させて、北朝鮮従業員の前で日本のアニメが好きだなどと言って大丈夫なのだろうか。
もし仮に私が韓国人で「K-POPが好きです」などと言ったら、彼女はクビどころでは済むまい。
そんな心配をよそに、北朝鮮の店員も我々のやり取りを笑顔で頷きながら聞いていた。
彼女も仕事モードから素の表情になったようだ。
私は見送る二人に礼を言って別れた。
石原莞爾が満洲で果たすことができなかった民族協和は、今ここに三族協和(日本・中国・朝鮮)として実現したのである。
そんな達成感に浸りながら、エントランスの回転扉を軽やかに通り抜けて退店した。

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