本州を除く主要三島のなかで、九州・北海道と比べると存在感が薄いのが四国である。
全体的に穏やかというか地味な印象で、福岡・札幌のような圧倒的な力を持つ都市もない。
そして日本最後の新幹線空白地帯でもある。
2024年11月下旬、そんな四国を七日間かけて高松を起点として反時計回りに一周した。
本シリーズでは旅程を「みぎうえ」「ひだりうえ」「ひだりした」「みぎした」の4パート(部)に分けてその様子を綴っていく。
なお、一周旅行全体のルートや「上下左右」の概念については、ガイダンス記事を参照していただきたい。
本記事は2日目前半。
景色の良い下灘駅経由で松山駅から大洲駅まで、予讃線の普通列車に乗車した。
「ひだりうえ」も後半戦となる。
人口と産業の集中する高松・松山間は「表四国」、もっと言えば「四国の表面」を辿ったに過ぎない。
これからよりディープな四国へと入っていく。
特急の通らない伊予長浜駅経由
松山駅からその先、予讃線の終点の宇和島駅までは特急「宇和海」が運転されている。
しかし、今回の四国大回りで一周ルールに従うと、「宇和海」に乗ることはできない。
というのも、予讃線には二つのルートが存在するからだ。
一つは海沿いを走る予讃線の旧線で、もう一つは1986年に開通した内陸寄りの内子経由の新線(内子線+予讃線)である。
「宇和海」が通るのは新線なので、旧線を走る伊予長浜駅経由の普通列車を敢えて選んで乗らなければならない。
ということで、朝6時55分に松山駅を出発する伊予大洲行き普通列車に乗車する。
真新しい松山駅ホームに停まっていたのは、みすぼらしい1両編成の古いディーゼルカーだった。
なお、四国西部のローカル線普通列車はトイレが無い車両がよく使われるので要注意である。
覚悟していたとおり今回もトイレ無し車両だった。
土曜日の早朝のローカル列車は意外と人が乗っていた。
予讃線は途中の伊予市駅まで電化されていて、その次の向井原駅から新線と旧線が分岐する。
この頃にはだいぶ乗客は減っていた。
まもなく海岸線沿いに出る。
左手にはすぐ崖が迫っており、空と同じ灰色をした集落と瀬戸内海(伊予灘)を見下ろしながら、急カーブがひたすらに続く道を進んでいく。
以前はこんな路線を四国の看板特急「しおかぜ」が走っていたのだ。
主要ルートから外された現在では細いレールの周りに雑草が生え、行き違い設備も撤去されていた。
旧線には海に近い駅として非常に有名な下灘駅がある。
もとは青春18きっぷのポスター写真に採用されて知名度を上げた駅で、最近は「映えスポット」としてよく取り上げられる。
実際にスーツケースを持った家族連れなどがこの駅で下車して、いろいろと写真を撮っていた。
なのだが、天気があまり良くないもあってか、下灘駅に着いてもさほどの感慨が湧き上がらなかった。
はっきり言って、ポスターや画像検索・SNSで表示される写真は大変良く映っているが、実際には駅と海の間には道路があり、もっと海を間近に感じられる駅はいくらでもありそうである。
結局この駅では大した写真は撮れなかった。
鉄道旅行者を自認しながら、あの下灘駅でこんな写真だけ撮って帰ってくる者はそういるまい。
思ったより海が遠い?
なおも海沿いに進み、伊予長浜駅に到着。
新線開業直前の1985年3月の時刻表を見ると、旧線内では唯一の急行「うわじま」の停車駅となっている。
ここで反対列車行き違いのため20分近く停車する。
2面3線とこの辺りではかなり大きな駅で、無人化された待合室のベンチには手作りの敷物が置かれていた。
きっと昔は駅に売店もあったのだろうと思わせる。
肘川の河口に突き出たように市街地があって、駅はその手前にあった。
その市街地から一人ずつ、数回に分けて乗客がやって来た。
ここには駅ならではの静かな旅情がある。
天邪鬼と笑われようが、私としては「撮影スポット」に過ぎない下灘駅よりも伊予長浜駅の方が好みだ。
そんなことよりも、綺麗な写真を情報化社会のアルゴリズムに捧げて(=SNS等にアップして)共感を得ることこそ大事だという人がもし読者にいたら、現在貴方は自身に相応しくない記事を読んでいる。
反対列車が来ると伊予大洲行きはすぐ出発した。
市街地を見やりながら左にカーブして肘川沿いに進路を定める。
ここは決定的瞬間である。
高松からずっと瀬戸内海沿いを走ってきた予讃線が、ついに海に背を向けて今度は川沿いに四国西部を縦断するわけだ。
しだいに谷が広がり大洲盆地が開け、8時50分に終点伊予大洲駅着。
松山からおよそ2時間の乗車時間だった。
ちなみに特急「宇和海」に乗ると、同区間の所要時間は30分少々である。
伊予の小京都、大洲
大洲市のランドマークは2004年に天守が復元された大洲城である。
その下には肘川に沿って城下町が広がり、「伊予の小京都」と呼ばれている。
駅から城までは徒歩だと30分くらいかかる。
コミュニティバスに乗って最寄りのバス停から少し歩いて城に着いた。
チケット売り場で大洲城・臥龍山荘・盤泉荘の3館共通券を購入する。
どこも見ごたえのある施設なので、是非3つとも訪れよう。
大洲城の天守閣は大洲藩の6万石という石高にしては、破風がよく目立つ華やかな造りだった。
14世紀に築かれた後、藤堂高虎など様々な大名が改築しながらここを治めたという。
内部の階段はかなり急な傾斜で、リュックサックを担いでいたので余計に難儀した。
やっとのことで天守閣最上部に登り、大洲の市内と予讃線の鉄橋を見渡す。
分厚かった雲はだいぶ払いのけられたようで、それに代わって幾重もの山なみが大洲の街を覆っていた。
ちなみに大洲城では宿泊体験ができる。
客は城主として鉄砲隊に迎えられ、城で郷土料理も味わうことができるそうだ。
地元の人に聞いたところ、費用は100万円らしい。
城を出て、川沿いに歩いて景観保存エリアの方へ行く。
江戸時代の城下町の風情を残した街並みだけでなく、明治時代に建てられたレンガ造りの建物もあり、散策していて楽しい。
水路を流れる水は驚くほど綺麗で、泳いでいる錦鯉も輝いて見える。
このエリアに土産物屋などを備えたまちの駅「あさもや」があり、観光の拠点となっている。
近くの有名な料亭の姉妹店(?)も入っていて、昼食を済ますのに利用価値が高い。
共通券2番目の臥龍山荘へ。
大洲藩の歴代藩主の庭園にはじまり、明治時代に成功した豪商が築造した別荘である。
肘川と山に抱かれてひっそり佇む庵だ。
農村の裕福な家を思わせる母屋は、質素ながらそれぞれの部屋に意匠が凝らされている。
敢えて粗末な造りにした部屋もあった。
母屋の奥、屈曲する肘川へ突き出た崖の上(少しはみ出している)に「不老庵」がある。
天井は竹網がドーム型に編まれていて、実際の寸法よりも空間的な広がりを感じる。
眼下の川で時々「チャポン」と音がする。
鵜が潜って魚を獲っているようだ。
「わびさび」といった純日本的な美意識を大いに表現し、自然の中にそっと溶け込んだ別荘だった。
続いて3つ目の盤泉荘を訪れる。
こちらはフィリピン貿易で富を成した豪商が大正時代に建てた別荘だ。
ごく普通の市街地を歩いていると、突如として都会の高級住宅街にありそうな屋敷が石積みの上に鎮座しているのが目に飛び込んできた。
赤銅色のライオン像が迎えてくれる前庭を通って中に入る。
先ほどの臥龍山荘が純日本的な庵なら、盤泉荘は国際色豊かな和風家屋である。
例えば廊下の床ひとつとっても、南国原産の赤くて堅い木材が使用されており、客を各部屋に誘うレッドカーペットのようだ。
バルコニーがあるのも珍しい。
裏山の岩盤からしみ出す水を井戸を引いて利用しており、それが盤泉荘の名前の由来だと言う。
まちの駅「あさもや」に戻って大洲のクラフトビール(県内有数のクオリティ)で一服していると、隣にいたグループが「これから内子に行こか。あそこの街並みは有名やもんね。」と話している。
それを聞いていると私も内子に行きたくなってきた。
当初の予定では引き続き宇和島方面に向かって卯之町を訪れる予定だったが、変更して松山方面の列車で内子に行ってから卯之町へ向かうことにする。
伊予大洲駅から内子駅までは特急で僅か10分。
内子の街は小さいから急いで1時間で周って、宇和島行きの特急に乗れば明るいうちに卯之町も観光できる。
こうした急な予定変更ができるのも、JR四国がたった2両編成の特急列車を1時間毎に運転してくれるおかげである。
結局大洲には昼食・バス移動も含めて5時間滞在した。
特急「宇和海」の停車駅の中で、最も途中下車する価値があるのが伊予大洲駅だろう。
「伊予の小京都」はただの街並みが綺麗な田舎町ではなく、豊かな歴史・文化・経済の香りを随所に感じる小都市であった。
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