【魏志倭人伝七ヵ国周遊紀①】対馬1日目前半、観光タクシーで金田城や元寇古戦場へ

旅行記

私はこれまで30年にわたって鉄道ファン、さらに詳細なカテゴリーで言うと「乗り鉄」をやってきた。
だから旅行に行くにしても鉄道に乗ることがまず念頭にあって、それに付随してその土地の風物に接するというのが形式であった。

しかし最近は史跡にも興味を持ち始め、鉄道とは全く無縁の対馬に行きたくなった。
となれば、帰りは壱岐を経由して福岡に戻り、ついでに「魏志倭人伝」ゆかりの筑肥線の沿線等を巡ろう…と考えつくのは、多少歴史に興味を持った乗り物好きなら当然の成り行きである。

然るに2024年10月中旬、6日間の日程で魏志倭人伝に登場する七ヵ国、すなわち対馬国・一支いき国(壱岐)・末盧まつろ国(唐津)・伊都いと国(糸島)・国(福岡)・不弥ふみ国(宇美)そして投馬国(佐賀)を周った。
なお、不弥国と投馬国の所在は諸説あり、それについて学術的に説明する知識も能力も私にはもちろんないが、参考までに吉野ケ里歴史公園の特別展「邪馬台国と伊都国」でこの説が紹介されていた。

魏志倭人伝の諸国
国土地理院の地図を加工して利用

本記事は対馬滞在1日目。
深夜便フェリーで厳原港に到着した後、観光タクシーを利用して本命の金田城かねだじょうや元寇古戦場などを巡った。
下のマップにおいて赤いマーカーで示したのが今回訪れた場所である。

スポンサーリンク

要塞の島を象徴する金田城

夜8時羽田発の飛行機で福岡空港へ飛び、博多港から深夜便フェリーで厳原港に未明に到着。
その後朝7時まで船内で休憩してから下船したのが前回の記事の内容である。

対馬におよそ1日半滞在するが、島全体を周遊するには時間が足りない。
そのため史跡や観光スポットが比較的多い南部に絞って観光する。
ここ城下町厳原も対馬の南寄りに位置し、昔から国府があった対馬の中心地である。
厳原観光だけならともかく、バスでは行けないスポットが点在しているので、対馬観光ではレンタカーかタクシーが必須となる。
そして私が一番行きたかったのが、古代に国境の要塞として築かれ、そして近代の日露戦争に際しても砲台が造られた金田城である。

約束通り8時半に厳原港まで観光タクシーが迎えに来た。
お世話になるのは60歳前後の男性の運転手(名前は控えているが一応伏せておく)だった。
なお対馬市では2024年6月末から2025年2月上旬まで、周遊タクシー運行実証実験として通常の2/3の料金で利用することができる。
私が申し込んだのは「金田城充実コース」という金田城の頂上まで登れる6時間のコースで、料金は17,000円(今回は延長したため基本料のみ)だった。

まずは厳原の市街地を通ってお目当ての金田城へ向かう。
通りには赤茶色の石垣が積まれ、歴史ある寺社や旧藩校もある。
ただならぬ城下町の佇まいに感動しているうちに長いトンネルに入り、その後は曲がりくねった山道の連続で、開けた田畑もほとんどない。
「対馬は産業が無いんですよ。ご覧の通り農業もあまりできませんし、昔栄えた林業も今は木材は輸入する側です。二人の子供も博多と神奈川に行ってしまいました。私としては対馬に残って欲しかったですが、しかたありませんね。」
運転手によると現在の対馬の人口は3万弱だが、10数年後には1万5千くらいまで減るという。

やがて車は林の中の狭い道に入りこんだ。
大型バスは通れそうもない。
途中から未舗装になり、工事用車両用の通路のようだ。
「こんな道通れるんですか?」と私が聞くと
「皆さんそう仰りますけど、これが道なんですよ。」とのこと。
金田城の登山口に着いた。
ここで運転手は待機し私が一人で登る。

登山口からはしばらく歩きやすい道が続く。
これは旧陸軍が馬車が通れるように舗装したためで、崖を切り取り石を積み上げて成した路はまるで廃線跡のようで嬉しい。
しばらく進むと視界が開けて、崖に沿って古代の石塁が浅茅あそう湾に落ちていく。
最初の絶景スポットだ。

途中に陸軍の廃屋があった。
辺りにレンガの破片が散乱し、建物も自然と同化しかけて不気味な雰囲気である。
恐る恐る内部を覗いてみると、黒いものが飛んできた。
その正体はコウモリだった。

現在はコウモリの家

さらに進むと、やはり明治時代の朽ち果てた軍設備の残る城山砲台跡に着く。
山頂までは僅かだが、ここからは今までとは違って急な山道となる。
ちなみに城山砲台跡からも景色は良いので、体力に自身がなければ無理に山頂に行かなくても良いだろう。

山頂の標高は276mと意外と低い。
眼下に瀬戸内海のような浅茅湾が広がる。
663年、朝鮮半島の百済を救済するため倭国(日本)が派兵するも、唐・新羅連合軍に敗れたのが白村江の戦いだ。
白村江の敗戦を受けて、唐からの侵攻に備えて築城したのがここ金田城である。
なるほど、山頂に立つと大海原が北西に開け、大陸や半島から来る船を見張るには都合が良い。
はるかに高い文明を持つ世界帝国への危機感から律令国家としての制度を整えた7世紀の日本は、黒船来航を機に近代国家へと邁進した明治時代の日本と重なる。
古代の防人も、その1200年以上後の陸軍も、同じ思いでこの景色を眺めたことだろう。

そんな緊迫した国境の要塞も今は静かで、数隻の船が浮かんでいる。
どこか海岸でチャポンと音がした。

同じ道を引き返すのも良いが、せっかくなので大回りして石塁を見学しようと思う。
ただ、実際歩いて見ると道は急傾斜で歩きづらく、道が分かりにくい所も多々あった。
こちらは登山に慣れている体力がある人以外は避けた方が良いルートだ。

出典:https://www.tsushima-net.org/pamphlet#download
対馬観光物産協会のサイトより

何とかして一ノ城戸いちのきどに到着。
ここから石塁見学ルートを辿り、登山口近くの山頂往復ルートと合流する。
二ノ城戸、三ノ城戸そして合流地点の近くには東南角石塁がある。
防人が駐在したであろう建物の柱跡も残り、防衛施設
中世ヨーロッパの鎖かたびらのように整えられた石塁は後年に補修されたもので、それもそれで威容を示すが、崩れ落ちて苔むした岩場と化したものも時代を感じさせる。

東南角石塁が一番見応えがあるので、山頂を往復するついでにここだけ見学するのが最も「タイパ」が良いと言える。
逆に城山砲台跡から一ノ城戸までのルートは、険しいわりには見所はあまりなく、あっても堪能する余裕もない。
もっとも、案内板には「防人の苦労を偲ぶことができるコースです」と書いてあったので、体力に自身のある人なら金田城をより満喫できることだろう。

スポンサーリンク

上見坂公園にも明治時代の堡塁があり

駐車場に帰って来たのは車を降りておよそ3時間後の12時過ぎだった。
ちなみに私は速足である。
この辺りでは一番旨いという魚料理店に連れて行ってくれたのだが、あいにく臨時休業。
対馬の人は商売っ気が無いからこういうことが多いらしく、実際1日半だけの滞在でもそれを強く実感した。
カフェレストランでハンバーグ(これがまた美味)を食べてから上見坂かみざか公園へ。
島を東西に横断する時、ここが峠の要衝となる。
標高が358mと金田城の山頂より高く、展望台から複雑な海岸線を見渡すことができる。
奥の道を行くとここにも明治時代の砲台や兵舎の跡がある。

相変わらず曲がりくねった道を今度は下って対馬の西岸へ向かう。
車窓は山と海ばかりだ。
海岸近くになると少し開けてきた。
この辺りが運転手が昔から住んでいる地域だという。
「あそこに小学校が見えるでしょう?私が通っていた50年近く前は1,000人の生徒がいました。今では…」
「何人くらいなんです?」
「一学年で10人もいません。」
「そんなにですか。」
「それに対馬には大学がないんです。進学する人は島から出るしかありませんから、余計に若い人が減っています。」
それでも、彼は自分が生まれ育った地について話す時は普段以上に嬉しそうだった。

スポンサーリンク

元寇古戦場にある小茂田浜神社

西岸の元寇古戦場に着いた。
ここは「金田城充実コース」に含まれていないが、私が時間を延長して連れて行って欲しいと頼んだのである。
二度にわたる元寇のうち、1回目の文永の役(1274)で元の大軍がここ小茂田浜を侵略した。
当時67歳になる守護代の宗助国そうすけくにが迎え撃ち、奮闘の末に全滅した。
海岸(昔の海岸線は現在より内陸寄りだったらしい)にある小茂田浜神社の入り口には今年(2024年)、つまり元寇750年を記念して建立された宗助国の像があった。
躍動感のある馬に跨り、多勢に無勢も意に介さぬ勇ましい顔つきで矢を構えている。
正面に立つと今にも矢が飛んできそうだ。
境内には元寇700年、さらには650年の記念碑もあった。

砂浜に立って脳内VRを装着して当時に思いを馳せた。
恐ろしい光景である。
相手は軍船900隻に兵3万、迎え撃つこちらは僅か90騎なのだ。

現実世界に戻って改めて周囲を見ると、若いカップルの姿があった。
男性は筋骨隆々、女性も目鼻立ちのしっかりした美人ではないか。
運転手に「貴重ないいものを見ましたねぇ。」と言うと
「本当に滅多にないことです。」と笑っていた。
お似合いの二人が東京からの観光客でないことを祈るばかりである。

あいにく軍船は見えませんが、カップルは写っております

続いて小茂田浜神社の近くにある石屋根倉庫を見に行く。
食料などを補完する倉庫なのだが、風が強いこの地域で嵐や家事から守るために屋根に石を用いている。
鈍重で無骨な外観だが、何処か南西諸島や東南アジアの建造物を思わせる。
私が見学している間、運転手は地元の人と方言で話をしていた。
どうもこの辺りの人とは皆顔馴染みのようだ。

スポンサーリンク

厳原市内へ

厳原に帰る道は上見坂公園経由ではなく、トンネルでショートカットする道路を通った。
市内に入り、「観光情報館ふれあい処つしま」に寄る。
ここではお土産品を販売している。
ここもコースとして定められてるが、バスツアーで土産物屋に寄るのと同じで「大人の事情」であろう。
とはいえ、観光情報を紹介したりレストランも営業しているので、旅行者にはとても利用価値の高い施設である。
対馬の焼酎「やまねこ」と対馬産の猪肉塩焼きを購入した。
ちなみに運転手曰く、ツシマヤマネコは対馬北部に生息しており、夜行性なので島民でも目にするのは交通事故が起こってしまってからだという。
またツシマヤマネコは本来は精悍だが、「野生動物保護センター」にいる個体は飼いならされているので家のペットと同様に太っているらしい。

最後に市内から少し離れた対馬藩の船着き場、船江ふねえまで行く。
産業に乏しい対馬はシンガポールのようなもので、朝鮮貿易こそ対馬藩にとって生きる道だった。
5隻の船が停泊できる設備のようだ。
なぜ今の港や城下町から離れた場所にあるのかは気になる。

これでタクシーで行きたい場所は、全て行った。
本来の6時間より1時間半延びている。
ホテルで降ろしてくれるよう頼んだが、運転手は途中菓子店で車を停め「ちょっと待ってください」と出ていった。
おそらく欲張りな客のせいで仕事が長引いたので、家族のための差し入れを買いに行ったのだろうと思った。
紙袋を持って戻ってきた彼が言った。
「これは江戸時代から名物の加寿萬喜かすまきというお菓子です。お祝いや感謝を伝える時に対馬の人が相手に贈るものです。これを貴方にさしあげます。」
かたじけないものである。
菓子とはただの太りやすい食べ物ではない、そこの人々の文化・風習なのだと強く感じた。

ホテルの玄関口に着いたのは16時過ぎ。
実に有意義な7時間半であった。
お世話になった運転手に重ねて感謝を伝えた。

日没までまだ時間があるのでもう少し市内観光をしたいが、一旦はホテルに戻ってコーヒーと加寿萬喜で休憩しよう。
加寿萬喜はカステラで餡子(こしあん・つぶあん)を巻いた菓子だった。
和洋折衷ぶりは異文化交流の島らしい。
そして何より漢字が目出度い。

対馬1日目後半は次回の記事にて。



コメント

タイトルとURLをコピーしました