文系の大人でも楽しめる、大宮鉄道博物館の見どころを解説【歴史ステーション、ランチなど】

東日本の博物館・資料館

埼玉県の大宮にある鉄道博物館は、日本に数あるこの種の施設の中でも最大の規模と内容を有しています。
博物館の特徴として、まずは様々な車両が展示されている車両ステーションの存在がありますが、その魅力はそれだけにとどまりません。

本記事では子供向けの「体験してみよう」型のコンテンツは割愛し、知的好奇心のある大人向けに鉄道博物館の見どころを解説していきます。
乗り物としての鉄道」ではなく、「輸送システムとしての鉄道から歴史や社会を見る」という前提で進めていきます。
なお、車両ステーションについては別記事で詳しく紹介しています。

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歴史ステーション

歴史ステーションの内部。
6つの時代ごとにそれぞれの特徴が社会情勢を踏まえて解説される。

新しくできた南館の3階に位置する「歴史ステーション」は1872年の鉄道開業以来の歴史を6つに分けて紹介するコーナーです。
展示されているものは車両と比べると地味で、見て触って動かしてといった子供でも楽しめるものではありませんが、様々な資料や写真が展示されておりアカデミックで充実した内容です。

なおこのフロアの中心部にある鉄道年表を表したイラストは、写真にはない温かみがあって素晴らしい出来栄えです。

イラストで辿る鉄道史。
これだけでも見ごたえがある。

プロローグ

入り口は江戸末期の開国の頃の絵や写真が複数あります。
日本人が鉄道という異文化と出会い、導入していく道のりを表しています。

ところでここにある鐘は何でしょうか?

それまで人々には今のような何時何分といった「時刻」という概念が存在しませんでした。
季節によって異なる夜明けと日没を基準に区分した時間を、お寺の鐘で知らされていました。
そこで鉄道を運行するにあたって、出発時間をこの鐘で告知する案が検討された訳ですが、物理的な制約からそれは実現しませんでした。

結局汽車は分単位で時刻に従って運行されることになり、人々も新たな時間概念を学びました。
この鐘は鉄道が時間認識を変えたという点で象徴的なものです。

手探りの黎明期【1870~1890】

開業したばかりの駅・汽車の写真や絵

当然ながら初期の鉄道は海外からの輸入という形で導入されました。
既に50年の鉄道の実績があるイギリスから、車両だけでなく建設・ダイヤ作成などのノウハウを学んで、1872年の10月14日(この日が今も鉄道の日になっています)に新橋~横浜間を陸蒸気が走り始めました。
またこのコーナーでは、新しいシステムを導入する指導を行ったお雇い外国人についても紹介されています。

時間概念もそうでしたが、乗車券を支払えば身分に関係なく安全に移動する権利を持つという、鉄道がもたらした近代社会への大きな変革についても述べられています。
なお、このあたりは原田勝正氏の「鉄道と近代化」(吉川弘文館)に詳しいです。

開業当時の新橋駅とその周辺の様子

国産技術の確立期【1890~1930】

アジアの多くの国では、ヨーロッパ諸国が植民地経営のために鉄道を建設していました。
しかし幸運なことに前節で触れた日本に来た外国人は、日本の将来のために外国に頼るのではなく技術を国産化すべきだとアドバイスしました。

技術は輸入した物でも、日本にも昔からの土木工事や測量の素養があったので、徐々に日本人はそれらを習得していきました。

タブレット交換機。
車両だけでなくシステム全体の技術を蓄積していった時代。

この時代には外国を手本にしながら、それを日本に合うように消化していきました。
ところでソフト面の習得はともかく、鉄道なような巨大なインフラのためには資金や資本が必要です。
日清戦争の賠償金で八幡製鉄所が造られ、殖産興業政策によって重工業が発達したため、そのような投資が可能だったのです。
輸入に頼らずともシステム全体を賄えるようになったのが1930年ごろまででした。

鉄道輸送の黄金期【1930~1950】

自家用車も航空機も大衆に普及していなかったこの時代は、まさに鉄道は陸の王者でした。
とはいえ何もかも順風満帆だったわけでは決してなく、1920年代後半からの金融恐慌や、何よりも第二次世界大戦による足踏みもありました。

1930年代は鉄道にとって戦前の黄金時代といわれます。
競争する輸送手段も少ない中で、不況による乗客減を防ぐために特急列車に名前が付いたり、1,2等車しかなかった特急「富士」に3等車が連結されたのもこの時期です。

特急列車の名前を募集する張り紙。
また左の青いポスターには「新設各等特急」とある。
当初1,2等車しかなかった特急も3等車が連結され、大衆向けのサービスも拡大した時代。

両大戦の間の平和な時代は観光が盛り上がった時代でもありました。
手ごろに利用できる準急列車が都心と日光や熱海を結び、観光客誘致に一役買いました。

そんな華やかな時代も1930年代後半に終わりを告げます。
戦争の勃発により貨物列車本位の輸送体系となり、旅客列車については本数の削減が繰り返されました。
盛んだったローカル線の建設も不要不急として行われなくなります。

そんな中で急ピッチで建設が進められていた新線がありました。
山陽本線の下関から門司間、つまり関門トンネルです。

北九州は炭坑や八幡製鉄所があり、軍需産業が盛んな地域でした。
実際米軍は当初、小倉に原爆を投下する予定だったとききます。
北九州と本州を鉄道で直結させる関門トンネルは1942年に開業し、鉄道は戦時体制における兵器として利用されてゆくのでした。

関門トンネルと下関駅の図。
地図に書かれているのは連絡線に接続していた旧下関駅。
トンネルは弟子侍を通るルート。

戦後の鉄道は満身創痍の状態からの復旧となりますが、幸いだったのはまだ電化区間が少なく、蒸気機関車やレールは火災に強く、設備面での損害は比較的抑えられたことでした。
それに比べて、台風で水に浸かっただけで廃車されてしまう現代のハイテク新幹線はなんと弱いことでしょう...

ともかく、あらゆる悪条件の下にありながら鉄道は人々の生活を支えたのでした。

世界一への飛躍期【1950~1970】

戦後の混乱が収まってから1970年ごろまでは、鉄道が最も元気だったころといえるでしょう。
自家用車の普及により輸送シェアは落ちていくのですが、何しろ経済成長による全体の伸びの大きさに助けられて、年々輸送力増強が行われていた時代でした。

上野駅の改札口を思わせる。
スクリーンに映っているのは、金の卵を乗せた集団就職列車の到着だろうか。

この時期には全国各地の主要幹線で、特急の運転や電化・複線化・高速化が進みました。
当然列車の予約管理は膨大となり、それまでの管理センターで台帳を使った方式ではとうてい捌くことができません。
そこで1960年に登場したのが今でもお馴染みの「マルス」です。

初代マルスが展示されている。
マルス導入前の予約発券作業の写真もある。

他にも線路保守作業も機械化が進み、駅の案内表示もシステム化されるなど、ハード・ソフト両面の近代化が顕著でした。
この時期のトピックスは新幹線開業ばかりが目立ちますが、そこは本館の車両ステーションに譲り、こうした地味な部分にもスポットライトを当てているのは素晴らしいことだと思います。

今や懐かしいフラップ式の案内表示。
列車が出発した後、一斉にパタパタ音を立てて情報が更新されるのは見ていて楽しかった。

未来への蓄積期【1970~1990】

「蓄積期」とはよく言ったものですが、要するに鉄道にとっては停滞期です。
道路の整備も進み航空機も大衆化していく中、国鉄では労使紛争が行われるなど苦しい時代に当たります。
特に1970年代後半は、国鉄の財政悪化のために大幅な値上げが繰り返され競争力の低下が顕著でした。

世はレーガンやサッチャーが政権を担う新自由主義の時代、日本でも中曽根政権下で国鉄の民営化が進められていきました。

自身の厳しい経営環境を赤裸々に語る国鉄。
その姿は今のJR北海道とまさにそっくりである。

もちろん暗い話ばかりではありません。
山陽新幹線・東北新幹線・上越新幹線は全てこの時期に開業しています。
また瀬戸大橋と青函トンネルにより、四国と北海道が本州と鉄道で結ばれたのも大きな出来事です。

青函トンネルはそれが計画されていた時とは状況が全く異なり、開通時には本来果たすべき本州対北海道の輸送はほぼ航空機に移行していたという皮肉な面もあります。
それでも2030年といわれる北海道新幹線札幌延伸の暁には、ようやく本領を発揮するのかもしれません。
そう考えると国鉄の民営化はもちろん、この時代の投資はやはり「未来への蓄積」なのでしょう。

外野からの批判はあれど、新幹線の全国への展開や「一本列島」などで、鉄道日本地図は着実に縮小していった

多様化する鉄道成熟期【1990~】

最後の時代区分ではJR民営化後の展開について紹介されています。
「成熟」は良くも悪くも解釈できますが、「多様化」は確かに民営化を象徴する言葉かもしれません。

一応は民間会社となったことで各社とも顧客志向が強まり、特に都市部では高頻度運転により乗車機会を増やすなど、地域密着を目指すようになります。
青函トンネル開業に伴い誕生した寝台特急「北斗星」は、個室「ロイヤル」やフルコースのフランス料理を提供する食堂車に代表される、それまでの国鉄時代では考えられなかった豪華な編成を有し、乗ることを目的にした列車として注目を集めました。

国鉄時代の車両は同じ用途ならだいたい同じ顔をしていたのが、分割民営化後は各社のカラーが鮮明になり、同じ会社であっても線区の特徴によって個性があるなどバラエティー豊かな陣容です。
例えば東京駅のJR東日本側の新幹線ホームでは次から次へとカラフルな車両が各地へ出発していきますが、国鉄時代だったらまだE2系とE3系しかなかったかもしれません。

今では当たり前になったIC乗車券ですが、こうしてみると我々の生活を大きく変えた存在だったことを改めて認識させられます。
今や駅の券売機の前で見上げて地図を見ているのは、東京ではほとんど外国人だけになりました。

新人時代の初々しいスイカのペンギン。
まさかここまで出世して自身の像が新宿に建つとは思いもよらなかっただろう。
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ランチの選択肢

昼食をどうするかについては3つの選択肢があります。

  1. 駅弁を買ってランチトレインで食べる
  2. ビューレストランで軽食を食べる
  3. レストラン日本食堂で本格的なメニューの料理を食べる

ランチトレインでの駅弁

北側のランチトレイン。
大型テーブル以外は昔のボックスシートのまま。

駅弁売り場は本館1階の車両ステーションの南北両側に2か所あります。
全国各地の駅弁が取り揃えられており、両方とも近くに飲食可能なランチトレインがあるので、旅行気分で駅弁を楽しむことができます。
北側にある車両が急行型で、南側にあるのが特急型です。

ビューレストラン

南館の4階には軽食堂があります。
メニューや雰囲気はフードコートのような感じですが、ここのポイントはなんといっても目の前を新幹線が走り抜けていくことです。
一度窓側に腰を下ろしたらE2系からE7系まで全て見たくなってしまうかもしれません。

日本食堂

日本食堂の食堂車風の座席

本館の2階にある本格的な食事ができるレストランで、値段もそこそこ張ります。
外の景色が見れるエリアと食堂車風のエリアがあります。

ちょっと敷居が高いと感じる人はカフェとして小休憩に利用するのがおすすめです。
高級な雰囲気の中で甘いケーキで疲れをいやしながらコーヒーでくつろいでいると、本当に食堂車で揺られている気分になれるでしょう。

まるで北斗星の食堂車に乗っているかのよう
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鉄道文化ギャラリー

自分が食べたことがある駅弁を探すのも楽しい

鉄道博物館の中では異色ともいえるのが本館2階にある「鉄道文化ギャラリー」です。
ここは小さなスペースですが、鉄道を題材とした本や音楽が昔のものから最近のものまで紹介されています。

興味深いのは全国の駅弁が整然とガラスケースに展示されているコーナーです。
ガラスをタッチするとそれぞれの駅弁について解説を見ることができます。
これをいろいろ見ているうちに、次はどこに旅行しようか自然と考えこんでしまいます。

今やスローライフやノスタルジーの象徴となってしまった駅弁ですが、近年おまじないのように口にされる「地元文化の発信」という点で、時代を先取りしていたようにも感じます。

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鉄道と社会

西欧から輸入された鉄道は、ただ単に「文明」としての輸送手段ではありませんでした。
今まで見てきたように、人々の価値観や生活様式を大きく変え、「文化」として社会に深く根を下ろすことになったのでした。
時には不幸に彩られながらも、鉄道の歴史はいつも日本人の歴史とともにあったといえます。

普段から通勤・出張・旅行で何気なく鉄道を利用している我々は、先人たちが築きあげた立派な遺産を、空気のように当たり前に享受していることを鉄道博物館は教えてくれます。

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