文系の大人でも楽しめる、大宮鉄道博物館の見どころを深く解説【車両ステーション編】

東日本の博物館・資料館
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埼玉県の大宮にある鉄道博物館は、その規模・内容において日本随一を誇ります。
とはいえ、中には「マニアじゃないと面白くない」とか「子連れで行くところ」と思っている人もいるかもしれません。

そこで本記事では、大人が一人(または大人だけ)でも非常に興味深い施設なのだということを説いてまいります。
内容としては

  • 博物館で一番の目玉である車両ステーションに絞る
  • 専門的なメカニックの言及は必要最小限にとどめる
  • 視野を広げ、鉄道を通して社会全般を捉える

ということを意識していきたいと思います。

つまり、本記事は鉄道博物館の展示内容を総花的・網羅的になぞったものではありません。
しかしオタクではないが知的好奇心のある一般人にとっても有益な情報になるかと思います。
なお、歴史ステーションなどについては別記事で紹介しています。

それでは幾つかの展示車両をピックアップして、それぞれの概要とその時代背景について解説していきましょう。

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1等展望車マイテ39は戦前の黄金時代の華

国際列車としての役割もあった日本の看板列車

大宮鉄道博物館のマイテ39
1930年代の東京駅で出発を待つ特別急行「富士」。

車両ステーションは基本的に手前(エントランスホールより)から奥の方にかけて、時代が下っていきます。
まず最初に目につくのが、戦前の1930年製の1等展望車のマイテ39です。
昔の等級を今に当てはめると3等=普通車、2等=グリーン車なので、1等車そのさらに上で、強いて言えばグランクラスでしょうか。

下関行きの特急「富士」として活躍し、戦時中に九州への関門トンネルが開通すると長崎まで運転され、時にはさらに先の上海航路と直結した長崎港まで足を延ばしたこともありました。
そもそも特急列車は最重要幹線である東京~山陽・九州方面に僅かにあるだけで、まさに「特別急行」としての貫禄があったのです。
1930年代は戦前の鉄道黄金期と言われますが、「富士」はその時代の東海道山陽本線特急のみならず、欧亜連絡ルートの一翼も担った花形列車でした。

特権階級のための車両

1等展望車の端にはデッキが付いていますが、走行中に人が立ち入ることはなく、出発時の「お立ち台」として使われていました。

今よりはるかに厳然たる階級社会では、たとえ金があろうと「平民」が特別急行の1等車に乗ることは考えられませんでした。
展望車は国内外の要人のサロンのような空間だったのでしょう。

なお、桃山式と呼ばれた豪華絢爛な内装は、一部には「霊柩車みたいで気持ち悪い」という意見もあったそうです。
外国人を意識して不自然な「日本的な」ものを作ってしまう日本人の性質は、今も昔も変わらないようです。

大宮鉄道博物館のマイテ39の車内
1等展望車の車内。
確かに辛気臭い気がしないでもない。
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初代ブルートレイン20系客車は走るホテル

元祖ブルートレイン

優美な先頭車のデザイン

20系客車は1958年に東京~博多間の「あさかぜ」として登場した、元祖ブルートレイン車両です。
統一された編成で夜を連想させるブルーの車体で、寝台特急のイメージを一代で築いた名車です。
それまでの寝台車と比べると設備や乗り心地も大幅に改善され、「走るホテル」と絶賛されました。
また当時は珍しい個室寝台も備えられていました。

新幹線が博多まで達するのは1975年、その頃までの航空機は高嶺の花で、割安なビジネスホテルも少なかった時代、寝台特急というのは出張や旅行にとって重要な社会的インフラだったのです。
例えば1964年10月の時刻表によると、東京~博多間の寝台特急の費用(3段寝台の下段)は計3600円に対して、東京~福岡の飛行機の直行便は13000円でした。

今では「蚕棚」と揶揄されるものの…

3段式の開放寝台

上の写真は最も一般的な3等寝台です。
ベッドの幅は50㎝少々で3段式、後のブルートレインの車両と比べると「これのどこが走るホテル?」と思うかもしれません。

ですが、当時としては3等車であっても冷暖房完備の車内で横になれるだけでも贅沢な列車だったのです。
乗り心地も1970年代以降に製造された客車にも負けない程だったといいます。
ちなみに、特急「あさかぜ」に乗れない人は「冷房が効いたあさかぜに乗って寝ると朝風邪あさかぜをひく」と僻んだという話があります。

参考:末期のブルートレインの2段式B寝台。
九州鉄道記念館にて。
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高度経済成長期の立役者、101系

もはや戦後ではなくなった通勤電車

中央快速線色の101系

今から半世紀前、路線ごとのカラフルな車体で関東平野を走り回っていたのが101系です。
「戦前の電車」にイメージされる、それまでの茶色でガタガタ走る車両と比べて画期的な通勤型車両で、1957年に登場しました。

典型的な戦前の通勤電車、クモハ40

「新性能電車」と呼ばれる程あらゆる面で新技術が採用され、高度経済成長期の都会の通勤輸送を支えました。
そしてその設計思想は、長い間後の車両の礎となりました。

展示されている車両は車内のポスターも当時のものになっています。
首都に人口が集中し、通勤圏がどんどん広くなっていくのに対応して、複々線化などの線路容量増加が積極的に行われていたことが分かります。

ポスターも当時のもの

昔はもっと凄惨だった通勤地獄

令和になった現在でも朝の通勤ラッシュはサラリーマンの苦行ですが、昭和中期はもっと悲惨なものでした。
今では首都圏の平均混雑率(100%が定員乗車で立っている人が余裕をもって吊革につかまれる程度)は170%くらいで、なんとか新聞が読める混み具合です。
ところが高度経済成長期はひどい場合は混雑率は300%近くという、とんでもない数値で、「押し屋」と呼ばれる駅員が乗客を電車に収容する力作業を行っていました。(ちなみに体が斜めになって身動きが取れないのが250%)
なお、通勤電車に冷房が付いたのは1970年ごろからなので、いかに非人道的な環境だったかが分かります。

日本が発展したのもモーレツ社員と101系のおかげなのです。

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新幹線から逃げ回り続けた181系(151系)の生涯

ボンネット型の先頭車でクリーム色の車体に赤い帯。
国鉄時代の特急電車といえばこの印象を持っている人も多いでしょう。
私が子供のころもまだまだボンネット特急は健在で、丸い目と短い眉毛に赤い舌を突き出した顔が大好きでした。

車両ステーションには2つの国鉄型特急電車が展示されていて、外見が似ていますが機器が異なります。
電化の方式には直流と交流の2つのタイプがありますが、正面に向かって右側の181系は直流専用で、左側の485系は交直両用です。

まずは181系から見ていきましょう。

直流専用の181系。
新潟行きの「とき」などで活躍した。

国鉄の威信をかけた傑作、パーラーカー

181系は主に上野から新潟への特急「とき」に使われましたが、勾配と雪対策の改造されて181系を名乗るまでは151系と呼ばれていて、この形式が国鉄初の特急型電車です。

151系は1958年に客車特急の後継として東京~大阪・神戸間でデビューし、電車ならではのスマートさと速さで、格式ある老舗特急列車を過去のものにしました。
東京と大阪が6時間半で結ばれ、物理的に日帰りが可能になったことから列車名は「こだま」が選ばれ、現在の新幹線にも受け継がれています。

その後、最初に見たマイテ39に相当する展望車(クロ151)が、1960年に編成に組み込まれます。
大型の窓に回転式の1人掛けリクライニングシートが片側1列ずつ並ぶ開放室と、車両端に1つだけ存在する応接間のような4人用の区分室から成る豪華車両で「パーラーカー」と呼ばれました。

形式上は2等車(現在のグリーン車)ですが、2等よりさらに追加料金が必要で、事実上の1等車といえます。
ソフト面のサービスも充実していて、固定電話が一般家庭に普及していなかった当時に、ボーイに注文すれば電話機を持ってきて自席で通話が可能でした。

パーラーカーの開放室座席の再現。
当時の写真も見れる。

東海道本線を撤退した後は不遇

この華々しきパーラーカーも登場してから僅か4年で、新幹線の開業のために第一線から退きます。
新幹線開業は前から分かっていたことなので、そこまでしてでもパーラーカーを製造した国鉄の熱意を感じることができます。

その後は諸改造を経て山陽本線に転用されますが、やはり東海道本線との客層の違いは歴然で利用率は低迷し、通常の座席に改造されてしまいました。
今でも東海道新幹線の車両にグリーン車が3両もあることからも、同区間の特殊性が窺えます。

やがて1975年に山陽新幹線が博多まで開通すると、今度は写真の通り特急「とき」として雪と闘いながら上野~新潟間の輸送に励みますが、その任務も1982年の上越新幹線開業で終わりを告げます。

181系の車内。
車内販売では冷凍ミカンもある。
オルゴールの鉄道唱歌と車内放送まで聞ける。
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昭和の日本人サラリーマン代表、ゼネラリスト485系

全国を奔走した国鉄の顔

特急型485系(左)と急行型455系(右)

交直両用の485系(より正しくは485系シリーズだが詳細は割愛)は特急列車の全国展開と地方の交流電化に応じて1964年に登場した、まさに時代が求めた車両です。

展示スペースは昔の上野駅を再現しています。
東北新幹線開業までは、上野駅から北・東日本津々浦々へ列車が旅立っていきました。
ターミナルならではの旅情だけでなく東北からの集団就職など、様々な人間模様を見守って来た駅でもあり、歌詞にも度々用いられてきました。

上野の地上駅で出発を待つ特急「ひばり」と急行「まつしま」。共に仙台行きの列車名である。
列車名は特急が花鳥風月、急行が地名という原則があった。

長らく国鉄の顔だった485系はその汎用性と長期にわたり製造されたため、JR化後もリニューアルを経て各地でしぶくとく生き残りましたが、さすがに2020年現在ではその原型をとどめている車両は無くなりました。

官僚主義の功罪を問う車両

各JRとして分社化され線区に合わせた車両が走っている現在とは違い、485系は九州から東北まで山でも平野でも活躍していました(この車両の一派は北海道にも進出したが雪に耐えかねて撤退した)。

それをお役所風と捉えることもできますが、限られた分野で力を発揮しつつも時代の流れに翻弄され、第二の人生を送るための「再就職」もままならない車両が多い昨今を考えると、必ずしも否定的に評価できないとも思えます。

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夢の超特急、0系新幹線

世界初の高速列車にして高度経済成長期や昭和の象徴として、歴史に燦然と輝く0系新幹線は鉄道博物館で2か所展示されています。

カットモデルでは運転台に入ることができる

0系のカットモデル

1つ目は先頭部分のカットモデルで車両ステーションにあります。
ここでは運転台に上ることができます。
高速列車のイメージとは程遠い、アナログなメーターや機械が並んでいます。

0系の運転台

開業当初の駅の時刻表も掲げられていますが、「のぞみ」が3分毎に発車する今の東海道新幹線からは考えられないほど長閑なダイヤです。

当初ひかりは「超特急」、こだまは「特急」と呼ばれていた。

また当時の新幹線に興奮する人たちを描写した会話テープが流れており臨場感があります。
特に母親をよそにしてはしゃぐ父親と息子の様子は心温まるものです。

別室では新幹線開業当日の東京駅を表現

別室を設けて展示されている0系の先頭車両。
白黒で見たあの映像そのままである。

もう一つは車両ステーションの隅に用意された別室で、先頭車がまるごと1両展示されています。
あの白黒の映像でよく見る新幹線開業初日の一番列車の出発を模した空間になっており、車内にも入ることができます。
0系は1980年代中盤まで実に20年間増備(当時の国鉄は労使紛争などで停滞期だった)されましたが、この車両は初期のものです。
後期のタイプと異なり窓は大型で、普通車の座席も今の水準からすればお粗末なものです。

初期の0系の車内

壁のパネルには新幹線開業にこぎつけた人々の努力について解説されています。
資金調達の苦労はもちろん、当時根強かった鉄道斜陽論という逆風についても言及されています。
まあ現在だったら「今やスマホやSNSが普及したから○○はオワコン」とやたらと主張する、世の最先端のみが正しいと考える人はいつの世にもいるものです。

紙コップとはペラペラの封筒のような容器だった。
水を飲むときに服を濡らしてしまった人も多いはず。

戦時体制の遺産を活用している新幹線

100㎞に満たない整備新幹線が着工から開業まで10年近く要している今日この頃ですが、東海道新幹線は500㎞以上を5年で完成されました。
もちろんオリンピックを控えた国家プロジェクトで、トンネルが少ない路線だという面もありますが、戦時中の「弾丸列車」の遺産があったことも大きいです。

弾丸列車とは、東京から下関まで新線を建設し、そこから対馬海峡にトンネルを掘って北京や「満州国」に至る高速列車の構想です。
これは実現しませんでしたが、その時に進められた用地買収や掘削されたトンネルは新幹線の建設に活用されています。

余談ですが、戦時体制の輸送力増強のために、本州と九州を結ぶ関門トンネルや東海道・山陽本線などの主要幹線が改良がされたという皮肉な事実もあります。

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18年ぶりの新型新幹線、200系

0系とは似て非なる車両

200系新幹線。
鼻が0系よりも少し長い。

200系新幹線は1982年の東北・上越新幹線開業に合わせて製造された車両です。
当初の予定より5年以上遅れ、しかもこの時は大宮までの暫定開業で、結局東京駅に入れてもらえるのは、1991年まで待たなければなりませんでした。
オイルショックや国鉄の経営難以外にも、都市部沿線住民の反対活動などもあり、先輩の0系とはまるで対照的な厳しい船出を強いられました。
1960年代には存在しないも同然だった「環境問題」が、200系には突き付けられたのです。

窓周りのラインが緑になっている他は、0系とは見た目は変わりませんが、実は鼻が少し長くなっていて最高速度も(途中から)240㎞に上がっています。
決定的な相違としては寒冷・豪雪地帯のために、車体構造がそもそも異なり周到な雪対策が施されていることです。
そのため、関ヶ原付近で積雪があればすぐに遅延・運休していしまう東海道新幹線をよそに、世界屈指の豪雪地帯でも勇ましく疾走することができるのです。

200系の車内。
リクライニング機能も付き、0系よりも進化している。

国土均一化の立役者

日本の最重要幹線である東海道・山陽方面と比べると、新潟や東北は実際の距離の割には心理的な遠い存在でした。
例えば東京からの距離が近い名古屋と仙台&新潟は2時間に対して4時間、大阪と盛岡は3時間に対して6時間、岡山と青森だと4時間のところが8時間半という格差がありました。

そんな雪の降り積もる「きたぐに」や「みちのく」への移動を一気に身近なものにした200系は、太平洋ベルトに偏った日本の産業インフラを改善する大きな役目を果たしたのです。

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車両たちの人生から日本の歴史を垣間見る

各車両には時代背景や特徴を記した説明書きがあり、大いに見学の助けになる。

以上見てきたように、鉄道博物館の車両ステーションは動くものに興味を持ち始めた少年や、(一鉄道ファンとしてこういうことは言いたくありませんが)大人になり損ねた一部の人達だけのマニアックな聖地ではありません。

専門的知識などなくても日本の歴史を映し出す一つの手がかりとして、知的好奇心を刺激してくれる大変面白い博物館なのだということが分かっていただけたと思います。
今回紹介したのは車両ステーションのみ、それも一部の車両ですが、その他のコーナーでも鉄道が果たしてきた役割とそれを見えないところで支える人々の尊い苦労と遺産について学ぶことができるでしょう。

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