【未来の記録】新・山陽九州新幹線(②長崎編)、佐賀経由で西九州新幹線全線開業

我脳引鉄

2022年9月に西九州新幹線(武雄温泉~長崎)が部分開業した。
しかし、残りの区間はまだ着工の目途が立っていない。

ならば「私の頭の中だけでもいいから西九州新幹線を完成させてしまおう」ということで考えたのが本記事である。
内容としては新・山陽九州新幹線(①鹿児島編)の続編となっている。
架空ダイヤも整合性をとっているはずである。

以下、九州に本社を置く鎮西ちんぜい新聞」から2037年3月某日の記事を引用する。

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【概要説明】新型車両N500系と全通した西九州新幹線

2022年に部分開業した西九州新幹線は、残る区間(新鳥栖~武雄温泉)の建設計画が難航した。
福岡と距離的に近い佐賀県が、メリットが少ないとして反発したためだ。
JR九州や各自治体、そして国を交えて話し合いが何度も開かれたが、費用負担・並行在来線の処理・ルートで折り合いがつかなかった。
ある国交省役人が匿名を条件に本紙に明かしたところによると、「長崎県も佐賀県も元は肥前国だったのだから、この際両県を合併させてしまえばこの問題は解決する。」などと放言した与党幹部もいたという。

そんな中、佐賀県にフル規格新幹線開通のメリットを示そうと苦慮していた関係者にとって、絶好のチャンスが訪れた。
前回の記事で紹介した山陽・九州新幹線高速化構想である。
これが実現すれば、最高速度320km/hのN500系が新大阪・博多間を約2時間で結ぶ。

新大阪・博多間ノンストップの最速「つばめ」を筆頭に、途中停車駅を「のぞみ」より減らした列車が新大阪・鹿児島中央間に1時間当たり3本運行されることになる。(以上の内容は前記事参照)
しかもこれに先立ち中央リニア新幹線開業が見込まれるので、西九州新幹線によって関西はもちろんのこと、関東とも観光・ビジネスの繋がりが強化されることが期待できるようになったのである。

かくして、これまで十分に認知されていなかった県の魅力をアピール機会にもなると確信した佐賀県は、ついに未開業区間の建設に同意した。
当初の計画通り九州新幹線の新鳥栖駅から分岐して、佐賀駅経由で武雄温泉駅に繋ぐルートが決まった。
比較的平野が多い区間なので工事は順調に進み、山陽・九州新幹線高速化の前年、つまり2036年に西九州新幹線は全線開業を果たした。
長崎本線が電化された60年後のことであった。

赤線:九州新幹線、紫線:西九州新幹線の新規開業区間、青線:西九州新幹線の2022年開通済み区間
国土地理院の地図を加工して利用

西九州新幹線のダイヤは、新大阪発の速達タイプ「かもめ」と、博多発の各駅停車タイプ「かささぎ」が1時間に1本ごとに走る。
山陽・九州新幹線高速化が実施された2037年現在、新大阪に直通する「かもめ」の車両は320km/h運転可能なN500系8両編成、「かささぎ」は先行開業時から使われているN700Sの6両編成である。
「かもめ」はこれまでも西九州新幹線に使われてきた名称で、予想通り速達タイプに採用された。
新大阪から博多までは鹿児島中央行き「ひばり」と併結する。
一方の「かささぎ」は、先行開業にあたって新幹線ルートから外れた肥前鹿島行きの特急列車に使われていた列車名で、名前の由来は佐賀県の県鳥である。

最高速度は九州新幹線と違って260km/hのままとなった。
「かもめ」の停車駅は新鳥栖佐賀、そして武雄温泉または諫早である。
武雄温泉では県内第二の人口を有する佐世保行きのリレー特急「みどり」と接続している。
また諫早も佐世保に次ぐ長崎県第三の都市で、島原鉄道とJR大村線も乗り入れる鉄道の十字路である。
この両駅には「かもめ」が2時間毎に交互に停車する。

なお、もとの計画では西九州新幹線は佐世保を経由するはずだった。
佐世保市は人口20万を超え、その規模は佐賀市に匹敵する。
JRが佐世保に対してこの程度の「義理立て」をするのは至極当然である。

部分開業時のN700S「かもめ」
2022年12月長崎駅にて

「かもめ」の博多・長崎間の所要時間は47分で、新大阪からも2時間58分と大台の3時間を切った。
佐賀までは博多から17分、新大阪から2時間28分である。
乗客の分散と九州内高速バスへの対抗のために、「かささぎ」限定の格安切符が設定されている。

新大阪博多佐賀長崎
かもめ840発1047/105111081138
かささぎ1110発11281213
西九州新幹線のダイヤ
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実録:「かもめ」に乗る

前回の鹿児島編では、薩摩支部取材班が鹿児島中央から新大阪まで「つばめ」に乗車した。
今回は鎮西新聞肥前支部が新大阪から長崎まで「かもめ」の取材を行う。

15時40分、新大阪駅を「ひばり・かもめ」が出発した。
最速の「つばめ」よりも停車駅が多いが、「ひばり」・「かもめ」両編成とも車両はN500系である。
孤高であるが故に運用に問題が生じたかつての500系の教訓から、山陽新幹線から九州・西九州・そして将来は東九州新幹線に直通する列車は全てN500系による運転となる。
「最高だが特殊ではない」がN500系開発のコンセプトであった。

N500系のイメージこと、500系のプロトタイプWIN350

六甲の山なみを左手前方に見ながら淀川を渡ると、「かもめ」は本気になったように加速を始めた。
六甲トンネルに突入する頃には相当なスピードだったが、やがて減速してトンネルに挟まれた新神戸駅に到着。
この駅の南側は神戸市街、北側は山である。

後ろの方の席では30代前半と見える賑やかな男女4人組があった。
彼らは仕事の傍ら、音楽バンドの活動をしているらしい。
4人とも同じ会社なのか聞くと、異口同音に「そんなわけないやん。会社の人と旅行なんておもんないわ。」と返ってきた。
一番陽気なC氏が言う。
「ぼくら高校時代からの友人で、修学旅行が長崎やったんですよ。あの時は韓国に行くはずがコロナ騒動と費用の問題で長崎に。それで15年ぶりにまた思い出の地に行こうってなんたんです。正味(「正直」の意味)どこ観たかは覚えてへんけど。」
平成~令和初頭なら、未婚で非正規社員の30代前半4人組などだらしないと言う頭の固い老人がいたかもしれないが、時代は変わった。
「新幹線は飛行機よりも速いし、移動が楽で座席も向かい合わせにできていいですね。」

余談ながら、当時をよく知らない今の学生は、2020年代初頭のコロナ騒動を「生真面目な日本人を揶揄したエスニックジョーク」か「ディストピア小説の話」くらいにしか思っておらず、100年も昔の戦時総動員体制と混同している人さえいる。
法律ではなく「お願い」によって、人々が鎖国・相互監視の下でマスク着用と外出自粛していたのがつい15年前だと、彼らにはとうてい信じられないのだ。

コロナ自粛を「お願い」する令和初頭のポスター
2021年ごろ

岡山駅広島駅と停車していく。
「かもめ」の列車名に反して瀬戸内海はほとんど見えない。
水田地帯に石州瓦の民家という平凡な景色こそが印象的であった。
九州に上陸し、小倉駅は通過した。

九州の首都博多駅では、乗務員が交代している2分の間に切り離し作業がある。
前8両の鹿児島中央行き「ひばり」が出た2分後に、我々の乗る「かもめ」が出発した。
「かもめ」は次の新鳥栖駅に停車し、いよいよ西九州新幹線に入る。

ところで昨年、本紙は西九州新幹線全通にあわせて、新鳥栖駅を「邪馬台国駅」に変更するようJR九州に提案し、先方からも快く承諾を得た。
ところが、社として邪馬台国畿内説を採用するJR西日本がこれに強く反発。
妥協案として「北九州・邪馬台国駅」を提示するもJR西日本は納得せず、「もし不本意にも駅名変更が強行された場合、新神戸・岡山・広島・小倉各駅を通過する列車の設定は一切認めない。」との最後通牒を受けるに至り、やむなく本紙案は撤回となったのである。

隣の席にはパソコンを叩く20代後半くらいの男性がいた。
仕事にしてはラフな格好である。
渋谷のIT企業に勤めるD氏は、佐賀県にある支店へ度々来るのだという。
「うちの業界では佐賀県に進出している企業が意外と多いんですよ。私自身、佐賀県って九州で一番小さくて地味な県だと思っていたのですが、なかなかいい所ですね。仕事が一段落したら武雄温泉に浸かりたいです。」
さよう。いつも「地味」と言われるが、佐賀県にはビジネスチャンスも観光資源もあるのだ。
D氏の話を聞いて肥前支部としても嬉しくなった。
「羽田から佐賀に行く飛行機は便数が少ないので、新幹線で開業して便利になりましたね。渋谷からでもリニア乗り継ぎで4時間少々で着きますし。」

さて、邪馬台国駅こと新鳥栖駅から大きく右にカーブし、再び進路を西に向ける。
吉野ケ里遺跡近くを通り過ぎて佐賀駅に停車。

冒頭述べた通り、西九州新幹線開業が遅れた原因は佐賀県が建設に反対していたためである。
もともとは新幹線と在来線を直通できる軌間可変電車(FGT)による運行が前提だったものの、FGT計画が技術的要因により撤回されて全線フル規格新幹線建設となれば、佐賀県としては話が違うとなるのは当然であった。
最終的には全線開業に至った今でさえ、国に翻弄されるに任せなかった当時の佐賀県に、本紙は明治維新や佐賀の役で中央政府に対して立派に振る舞った肥前士族の面影を見るのである。

それはともかく、明治時代に日本の鉄道を国際スタンダード(新幹線と同じ軌間)より狭い軌間で建設するよう決めた人物こそ、肥前が産んだ偉人大隈重信であった。
後に彼は狭軌の採用を自身の「一世一代の後悔」と語ったと言われるが、佐賀が福岡・大阪そして東京とも高速鉄道で繋がり、今頃胸をなでおろされていることだろう。

大隈重信像とその生家

西九州は日が暮れるのが遅い。
「かもめ」は日没を追いかけるように西へとひた走った。
薄暗くなり始めた18時38分、終着長崎駅
ホーム先頭の方を見ると、目の前は港になっていて、それを囲う山の中腹には灯りが洩れていた。

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