【魏志倭人伝七ヵ国周遊紀⑩】5日目後半、吉野ケ里遺跡を3時間半で見学

旅行記

私はこれまで30年にわたって鉄道ファン、さらに詳細なカテゴリーで言うと「乗り鉄」をやってきた。
だから旅行に行くにしても鉄道に乗ることがまず念頭にあって、それに付随してその土地の風物に接するというのが形式であった。

しかし最近は史跡にも興味を持ち始め、鉄道とは全く無縁の対馬に行きたくなった。
となれば、帰りは壱岐を経由して福岡に戻り、ついでに「魏志倭人伝」ゆかりの筑肥線の沿線等を巡ろう…と考えつくのは、多少歴史に興味を持った乗り物好きなら当然の成り行きである。

然るに2024年10月中旬、6日間の日程で魏志倭人伝に登場する七ヵ国、すなわち対馬国・一支いき国(壱岐)・末盧まつろ国(唐津)・伊都いと国(糸島)・国(福岡)・不弥ふみ国(宇美)そして投馬国(佐賀)を周った。
なお、不弥国と投馬国の所在は諸説あり、それについて学術的に説明する知識も能力も私にはもちろんないが、参考までに吉野ケ里歴史公園の特別展「邪馬台国と伊都国」でこの説が紹介されていた。

本記事は5日目後半、唐津線乗車後そのまま長崎本線に乗り、弥生時代の大環濠集落跡の代名詞である吉野ケ里遺跡を訪れた。

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日本の近代化に貢献した佐賀藩

今日の午前中は唐津線で唐津から南下して久保田駅に着いた。
そこから長崎本線の鳥栖行き普通電車に乗って吉野ケ里遺跡へ向かう。
久保田駅から2駅で県庁所在地の佐賀駅に到着、乗客の大半が入れ替わった。

今回は宿泊するだけだが、佐賀駅の近くには佐賀城や大隈重信生家などがある。
佐賀藩は幕末の名君鍋島直正の藩政改革・近代化により「薩長土肥」の一画として名をはせた。
そんな佐賀城の入り口に展示されているのは、侍の甲冑ではなく西洋式の大砲だ。

そして大隈重信は明治期の鉄道敷設にも大いに関わった人物である。
ちなみに「日本は狭いから」という理由で鉄道を標準軌(新幹線の線路幅)ではなく狭軌(在来線の線路幅)に決めたのは彼で、後にそのことを「一世一代の不覚」と語っている。
肥前出身の大隈の「不覚」がために、現代でも西九州新幹線の計画が難航しているとは皮肉なことである。

兎にも角にも、荒い玄界灘に臨み譜代大名が入れ替わりで治めた唐津藩と、穏やかな有明海という内海に面した外様大名鍋島の佐賀藩という、同じ県でありながら全く異なる地理的・歴史的背景を持つ地域を結ぶのが唐津線である。

さて、長崎本線の電車は唐津線の鈍重な国鉄型ディーゼルカーとは違って、スルスルと加速して100km/h近くの速さで水田地帯を東へと突っ走る。
改めて新型の電車は足が速いなと感心した。
佐賀駅から10分程度で吉野ヶ里公園駅に着いた。
遺跡のある吉野ヶ里歴史公園まではここから徒歩15分である。

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吉野ケ里遺跡を攻略

周囲は一面田んぼの道を歩いて行くと、吉野ヶ里公園の入り口(東口)が見えてきた。
遺跡の入り口というよりテーマパークのエントランスのようだ。
ここで入場券を購入し、リュックサックをコインロッカーに預ける。
佐賀県の史跡・博物館で入館料が必要な所は珍しい。
もっとも大人で460円なので安すぎる。

吉野ケ里遺跡は日本最大規模を誇る弥生時代の環濠集落として知られて、その様子は魏志倭人伝で描かれる邪馬台国の時代を彷彿とさせる。
公園はとても広く、園内にバスが運行されているくらいである。
その中で「メインコンテンツ」となるのは、公園の東寄りの「南のムラ」から「北墳丘墓」にかけてのエリアである。
限られた時間内でもなるべく有意義に過ごすためにも、濃淡をつけて見学することをおすすめしたい。

東口から橋を渡ってムラに入国する。
早速ムラへの侵入を防ぐための環濠と障害物を目にした。
「ムラ」よりも「クニ」の方が実態としてイメージしやすいかもしれない。
集落を再現した屋外展示だけでなく、東口付近には屋内のガイダンス・資料室もある。
特に土器の破片を繋ぎ合わせて全体を復元する、地道な作業を紹介した映像が印象的だった。

「倉と市」や「南内郭」あたりが公園南部のハイライトだろう。
コメなどを保存する高床式倉庫が並んだ市を歩き、周囲を監視する物見櫓に登れば弥生時代の世界に入った気分になれる。

「北内郭」はまつりごとを行った場所である。
ここにある主祭殿は、吉野ケ里遺跡で復元されている建物のなかで最も威容がある。
人々が王のもとに集まって会議を行い、その上の階では卑弥呼を思わせる祭祀者が祖先の霊と交感してそのお告げを聞いている。
稲の刈り取りをする時期もこのようにして決めていたそうだ。

さらに北に行くと、ピラミッドの下部だけ残ったような形をした「北墳丘墓」が見えてくる。
ここは歴代の王の墓で、14基の甕棺かめかんが見つかったという。
甕棺とは弥生時代の北部九州特有のひつぎで、上下に2つ合わせた土器の中に死者を屈折させて入れて埋葬する。
地中から見つかった状態で甕棺が展示されている。
どれも王の墓だが、土器製造の技術の違いなのか、それとも生前の王の権力の違いなのか、甕棺のサイズには若干ばらつきがある。

王だけでなく、一般人を埋葬した「甕棺墓列」もある。
こちらは立派な墳丘墓ではなく、地中に密集して埋められていたようだ。
半数の甕棺は小さいことに気付く。
これは子供用のもので、当時の子供の死亡率の高さが分かる。

以上、吉野ヶ里公園の主要部分を見学した。
その合間に邪馬台国に関する特別展があったので行ってみた。
邪馬台国所在地の九州説と畿内説の論点整理をしたうえで、九州説が合理的で自然であると結論付けている。
吉野ケ里遺跡を邪馬台国と見る説もあるそうだがその説は採用せず、この辺りを投馬国と定めており、邪馬台国は福岡県の久留米市周辺になっていた。
おそらく伊都国以降に出てくる国の方角は伊都国を中心に捉え、距離は記述の十分の一とした考え方だと思われる。
伊都国(糸島市)より当時の川や水路を辿って南に「水行二十日」(実際は50㎞程度)進むと、吉野ケ里に着くといったところだろうか。
本シリーズもこの説に準拠して、投馬国を含む「七ヵ国周遊紀」と称している。

閉園時間の17時が近づいてきた。
公園に入ったのが13時半だったから、コーヒー休憩も含めて3時間半の見学時間だった。
ちなみに、吉野ヶ里公園の西側は原っぱのような広場やグラウンドなど、どちらかというと「遺跡巡りに飽きた子供向け」といった感じのスペースなので、時間の都合もあって割愛した。
ともかく、すっかり弥生時代の世界観に浸ってしまった。
私ともあろう者が、公園の横を走る列車の音を不快に感じたくらいなのだから。

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佐賀駅へ戻る

長崎本線の列車で佐賀駅に戻り、佐賀牛・カンパチ刺・エツ(有明海で獲れるイワシとシシャモを足して2で割ったような魚)の唐揚げなどと共に、何種類も地酒を味わった。
今日は駅近くのホテルに宿泊する。

観光地に恵まれた九州にあって、福岡県と長崎県に挟まれた佐賀県は間違いなく一番目立たない県であろう。
たしかに絶景・温泉・グルメの3部門で全国的に有名なものは無いかもしれない。
安直なSNS映えが求められる現代においてはなおさらで、「県別魅力度ランキング」とやらでは最下位の常連に甘んじているらしい。
私はその種のランキングには興味も価値も感じないが、末盧国から投馬国(ということにする)までの計4回(⑦~⑩)の周遊記で、「佐賀県も意外と面白そうだ」と思ってくれた読者がいれば嬉しい。

人口80万人にも満たない佐賀県ではあるが、佐賀駅周辺は非常に活気があって都会的だった。
特に若い女性の姿が目立ち、もう一言添えれば容姿に優れた人が多い。
北国に見られる透き通るような美人タイプより、健康的でチャーミングなタイプだろうか。
午前中訪れた小城の酒屋主人の「佐賀県の日本酒は淡麗辛口ではなく、やや甘口・濃醇寄り」という言葉をホテルで晩酌しながら思い出した。


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