私はこれまで30年にわたって鉄道ファン、さらに詳細なカテゴリーで言うと「乗り鉄」をやってきた。
だから旅行に行くにしても鉄道に乗ることがまず念頭にあって、それに付随してその土地の風物に接するというのが形式であった。
しかし最近は史跡にも興味を持ち始め、鉄道とは全く無縁の対馬に行きたくなった。
となれば、帰りは壱岐を経由して福岡に戻り、ついでに「魏志倭人伝」ゆかりの筑肥線の沿線等を巡ろう…と考えつくのは、多少歴史に興味を持った乗り物好きなら当然の成り行きである。
然るに2024年10月中旬、6日間の日程で魏志倭人伝に登場する七ヵ国、すなわち対馬国・一支国(壱岐)・末盧国(唐津)・伊都国(糸島)・奴国(福岡)・不弥国(宇美)そして投馬国(佐賀)を周った。
なお、不弥国と投馬国の所在は諸説あり、それについて学術的に説明する知識も能力も私にはもちろんないが、参考までに吉野ケ里歴史公園の特別展「邪馬台国と伊都国」でこの説が紹介されていた。
本記事では壱岐をレンタサイクルで1日観光する。
下のマップで赤いマーカーで示したのが今回訪れた場所である。
壱岐は小さいので自転車でも1日で周れる
壱岐のグルメと焼酎を満喫させてくれた旅館を出て芦辺港へ。
ターミナルビルの隣には馬に跨り気勢を上げる若者の像がある。
2回目の元寇、弘安の役で元軍を迎え撃った壱岐国守護代の少弐資時である。
弱冠19歳の彼の率いる少数の兵は、元の大軍との激しい戦いの末に全滅した。
港に続く道路の脇には、少弐家の子孫やモンゴル大使による植木があった。
弘安の役の古戦場は後で訪れる。
ちなみに、この少弐資時像は対馬の小茂田浜神社(文永の役古戦場)にある宗助国像と非常によく似ている。
19歳と67歳という年齢の違いこそあれど、同じ志を持って立派な最期を遂げた人たちだ。
壱岐は東西・南北それぞれ15㎞程度の小さな島なので、自転車でも1日あれば周ることができる。
朝9時と同時に港の観光案内所に行って自転車を借りる。
帰りの船は郷ノ浦港発だが、そちらの観光案内所に乗り捨ても可能なので都合が良い。
自転車は電動アシスト付きだった。
今回訪れる場所は4つのエリアに集約される。
最初に行くのが一支国博物館と原の辻遺跡で、島の南東部(①)にある。
その次が芦辺港近く、東部にある弘安の役古戦場跡(②)。
そして北部の勝本城跡(③)、最後に島の中央部の古墳群(④)に行って郷ノ浦港に至る。
それから②と③の間に文永の役の古戦場もある。
というわけで、まずは一支国博物館へ向かう。
「一支」というのは魏志倭人伝の表記で、これは「壱岐」のことというのが定説になっている。
昨日フェリーから見た壱岐は平坦な島だったが、実際に走って見るとアップダウンが激しく、かなり電動アシストのお世話になった。
山と海だけだった対馬と違って、田んぼはあちこちで見られる。
①一支国博物館と王都
一支国博物館に着いた。
対馬博物館が濃淡はありながら全時代を扱っていたのに対して、こちらの博物館は古代、とりわけ弥生・古墳時代に特化した内容になっている。
魏志倭人伝の文章で覆いつくされた通路を抜けると、ガイダンス映像のコーナーだった。
映像が終わると自動的にブラインドが上がって、目の前に原の辻遺跡が広がる仕掛けになっている。
するとどこからともなくボランティアガイドが現れ、原の辻遺跡は壱岐国の王都であると特定されていること、ここを舞台に広く交易がおこなわれたこと、発見された人面石がムンクの「叫び」と似ていることなどを、すらすらと詠唱する。
その解説が終わると、思わず拍手してしまった。
館内展示には弥生時代の暮らしを再現したジオラマがあり、農耕・狩猟・祈り・交易などに携わる人々がなかなか精巧に描かれている。
またエレベーターで展望台に登ると、原の辻遺跡を望むことができた。
その他にも古代船の模型や古墳や副葬品のレプリカなど興味深いものが多く、2000年前の壱岐国の様子が伝わってくるようだ。
博物館では1時間以上(ゆっくり鑑賞して)を要した。
次はもちろん壱岐国の王都たる原の辻遺跡へ行く。
自転車で坂道を下ると田畑が広がった。
この辺りは諫早平野に続いて長崎県で2番目の広さの平野である。
一応王都の入り口らしきものはあったが自由に入国できるようだ。
かつての王都には物見櫓や倉庫・住居が再現されている。
川を通じて海に出ることが容易で、かつ周りは丘陵地に囲まれているので、集団生活を営むにはとても都合が良さそうである。
壱岐国の交易を支えた船着き場跡を探したものの、それらしい目印は見つからなかった。
②元寇の激戦地
これでようやく1つ目のエリアをクリアした。
来た道を引き返して弘安の役古戦場にある壱岐神社へ。
弘安の役で戦死した少弐資時を祀っている。
芦辺港近くに突き出たような小高い丘が古戦場である。
天気が良いのに風が強く吹き付けて波が荒く、松林が揺らめいて足元でゴォーッという音が繰り返される。
明るく穏やかな人の隠された怒りの表情に触れたようで、何だか不気味な気持ちである。
壱岐神社の近くには千人塚がある。
市街地の住宅や駐車場に囲まれた一画に、砂利を積み上げて造った墓である。
上陸した元軍は島民に暴虐を尽くし、累々と積み重なった犠牲者を祀ったものだという。
勝本城を目指して北西に進んでいく。
その途中に1回目の元寇、文永の役古戦場跡がある。
田畑の広がる内陸部にまで元軍が侵入してきたようだ。
ここでも日本軍は少数の兵で応戦して全滅した。
教科書で習う元寇とは、全体としては「鎌倉武士たちが苦戦しながらも北九州で迎え撃ち、神風の力も借りて元軍は撤退していった」という内容だが、対馬と壱岐に来るとそうした認識も変わる。
戦争というものは簡略に語り継がれる「ストーリー」よりもずっと生々しいものである。
③朝鮮出兵の勝本城
アップダウンを繰り返しながら自転車を進めると、ようやく目の前に海が広がった。
島の北部、3つ目のエリアの目的地は、秀吉が朝鮮出兵の拠点として築いた勝本城である。
対馬の1日目後半で訪れた清水山城と同じ役割だ。
石垣が良好な状態で残っている。
小さな神社しかない本丸跡からは、明るく穏やかな海と白い砂浜を望むことができる。
こんな平和な光景に軍艦は似合わない。
遥か向こうにはうっすらと対馬も見えた。
城を下った所が松尾芭蕉の弟子、河合曾良の終焉の地とされている。
城の中腹に墓地があってその中に彼の墓もあると思われるが、あまりにクモの巣が張り巡らされているので撤退してしまった。
墓参りに来る人もいないのだろうか。
ここは本丸近くの河合曾良の句碑を見て満足する。
④長崎県一の古墳の宝庫
いよいよ最後のエリア、島の中央部にある古墳群を見に行く。
弥生時代の輝かしい王都跡を有する壱岐は、古墳の宝庫でもある。
長崎県に存在する古墳の6割がここ壱岐にあるというから驚きだ。
古代においては、現長崎県で最も栄えていたのがここ壱岐であったに違いない。
とすると、壱岐・平戸・長崎と中心地は南に移っていったように思われる。
古墳全てを見るのは到底不可能だから3つに絞る。
まずは掛木古墳。
6世紀~7世紀にかけて築造された円墳で、内部を覗くことができる。
奥の石棺から何か出てきそうだ。
かつてこの辺りに「風土記の丘」という施設があったそうだが、現在は閉館している。
そこの一部だったであろう資料室がまだあって、電気は消えているものの古墳の説明をみることができた。
次に訪れるのは6世紀中ごろの双六古墳で、これは長崎県最大にして九州でも二番目の規模の前方後円墳である。
ブルドーザーの出入りする工場を通り過ぎると、前方後円墳の成れの果て、ひょうたん島の浮かぶ草原に出た。
大陸系の遺物が数多く出土し、この古墳を取り巻く環境が国際的に重要だったことが分かるという。
そして最後に鬼の窟古墳へ。
壱岐最大の円墳で、木々で覆われているのでまるで洞窟のようである。
内部は3つの部屋から成るたいそうな間取りで、一番奥に石棺がある。
変わった名前も相まってか訪れる人が多いらしく、駐車場と自動販売機とずっと前に閉店したと思われる食堂があった。
なお「鬼の岩屋」とは壱岐で古墳のことを意味するらしい。
大きな石で祠を造るのは鬼の仕業に違いないと人々は考えたそうだ。
これまで見てきたように壱岐の史跡は古代に集中し、それ以降のトピックスとしては中世~近世初期の元寇と朝鮮出兵があるくらいだ。
その点、歴史的重層性に関しては対馬に軍配が上がるし、一支国博物館が古代に特化するのもそのためといえよう。
だが前回述べた通り、グルメ・酒に関しては壱岐は長崎県をリードする地域である。
郷ノ浦港へ戻る
これで今日見る予定のものは全て見た。
引き続き南下して郷ノ浦港に着いたのは15時半頃。
自転車を返却する前に市街地を一回りし、土産物屋で壱岐のクラフトビールを見つけた。
3種類あるがここは「迷った時は全部買え」の鉄則に従う。
今すぐ飲みたいが、あいにくまだ「車両運転中」の身である。
島内を走り回っているうちに、とうとう昼食を摂り損ねてしまった。
ダメもとでターミナルビルの食堂を覗いてみると、ありがたいことに営業中だった。
壱岐牛ステーキ丼と壱州豆腐と壱岐焼酎で遅めのランチにした。
旅館の食事でも感じたことだが、壱岐の豆腐は「これぞ本物」と感じる。
是非これで麻婆豆腐を作りたいが、香辛料まみれにしてしまうのも勿体ない気がする。
それはともかく、対馬国と壱岐国を合計3日間で周った。
日本の歴史は西から東へと流れている。
よってこの両国は、ときに先進地域である大陸からの文物を受容する国際色豊かな地として、ときに緊迫した国防の最前線として、その歴史文化を刻んできた。
戦時中の弾丸列車計画(東京発、下関から壱岐・対馬を経由して朝鮮・大陸への高速列車を走らせる計画。戦後は新幹線の実現に生かされた。)が実現していればもっと早く壱岐・対馬の良さに触れられたのに、と鉄道ファンとしては悔やまれる。
これから郷ノ浦港16時55分発のジェットフォイルで博多港へ戻る。
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