1970年代の上野発青森行き夜行列車たち【青函連絡船と夜汽車の全盛期】

時刻表深読み

「上野発の夜行列車降りたときから~」
の歌詞に始まる、紅白歌合戦の定番「津軽海峡冬景色」。
イントロの三連符を聴いただけで、北国の雪模様とそこを走る列車、そして青函連絡船が脳裏に浮かびます。

現代では東京から北海道に行くのは飛行機が当たり前。
実際にコロナ前の2019年には、国内線の航空旅客数は1位が羽田~新千歳、9位に成田~新千歳と圧倒的な数です。
しかし、1970年代中ごろまでは鉄道と青函連絡船も健闘していました。

本記事では青函連絡船の輸送量がピークを付けた1973年10月の時刻表より、上野発の青森行き夜行列車の姿を追っていきます。

当時の時代背景は

  • 高度経済成長期の末期。
    このダイヤ改正の翌月に第一次石油ショックが起き、好景気が終わる。
  • 東北新幹線・青函トンネルは未開業。
  • 航空機の大衆化が進むも依然として鉄道との価格差は大きく、鉄道で北海道に行く人は多かった。
    例:東京(上野)~札幌の場合、特急乗り継ぎでも5,310円、ジェット機だと13,900円
    また、東北自動車道の開業も矢板IC(栃木県)まで。
  • 優等列車の主力は急行から特急へ移行しつつあった。

以上より、上野~青森の列車は東北地方のみならず、青函連絡船を介した北海道連絡列車としての使命もあり、輸送シェアは落としつつも総需要拡大に支えられていました。
さらに、現在では高速バスやLCCが担っている低価格帯の中長距離輸送も、急行列車が引き受けていた時代でした。

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6種類16本の夜行列車

赤線:東北本線、青線:奥羽本線、緑線:常磐線
国土地理院の地図を加工して利用

当時上野から青森へは
東北本線をひたすら北上するルート、②福島から奥羽本線回りのルート、③仙台まで常磐線を通るルート
と3つのルートがあり、それぞれに特急と急行が運行されていました。
それらの列車をまとめると、以下の表のようになります。

列車名ルート本数(うち季節列車)所要時間
急行「八甲田」東北本線2(1)往復11時間
特急「はくつる」東北本線19時間
急行「津軽」奥羽本線214時間
特急「あけぼの」奥羽本線112時間
急行「十和田」常磐線5(3)12時間
特急「ゆうづる」常磐線59時間
臨時列車は除外、季節列車は本数に含む
所要時間は定期列車の最速

臨時列車をカウントしなくとも、実に1日16往復の列車が存在したのです。
編成内容としては、急行列車は座席車が主体で寝台車は数両、それ以外にも今は無き荷物車・郵便車もありました。
雑多な編成を持つ急行が特急並みかそれ以上に元気なのは、当時の鉄道の多様性や包容力を示しています。
特急列車は寝台列車で食堂車も連結していました。

そして、始発駅と終着駅こそ同じなれど、それぞれの列車にはそれぞれの個性やエピソードがありました。
以下、各ルートごとにそれらを探っていきましょう。

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東北本線経由「八甲田」・「はくつる」

583系
九州鉄道記念館にて

最短・最速のメインルートかと思いきや、意外と本数が多くないのが東北本線です。
新幹線がなかった当時は夜でも線路容量が逼迫しており、昼間の列車ほどスピードが重視されない夜行列車は他線区に流れる傾向にありました。

「はくつる」に使われる車両は昼夜兼用特急車両の583系です。
この車両には昼間の4人用ボックスシートを夜には3段寝台に変身させるという、手品のようなギミックがありました。
まさに「紺色と白は元気のしるし 24時間戦えますか」と、パンタグラフからビリビリ火花を散らしながら、昼夜走り続けたジャパニーズビジネスマンです。

また、583系化される前の「はくつる」は、東海道・山陽筋の元祖「あさかぜ」に遅れること6年、北日本へ向かう初のブルートレインでもありました。

列車名上野発仙台着青森着函館着札幌着
急行「八甲田」190901961511201545
特急「はくつる」2224通過71011201545
定期列車のみ
青森~函館は青函連絡船、函館~札幌は特急「おおぞら3号」

「はくつる」は東京対北海道を強く意識した寝台特急、「八甲田」は関東~南東北の間で客が入れ替わりながら、仙台以北は北海道への夜行列車の性格が窺えます。
それぞれ最も一般的な設備で比較すると、上野~札幌までの乗車券3,710円に加え、

特急券1,200円+電車B寝台下段1,600円=2,800円に対して、急行券(4人用ボックスシート)300円

の追加料金が必要でした。
実際「八甲田」はその時間帯からも若者の利用が多かったようで、特に周遊券(かつて北海道旅行に重宝されていた)でも急行自由席が利用できたため、夏には学生たちで通路まで満員になったそうです。

急行の普通車の車内イメージ
リニア鉄道館にて
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奥羽本線経由「津軽」・「あけぼの」

距離は東北本線経由とあまり変わらないものの、険しい山越えや非電化区間もあったのが奥羽本線です。

列車名上野発山形着秋田着青森着
急行「津軽1号」1927138556922
特急「あけぼの」2200通過7031022
急行「津軽2号」22415019331254
列車を抜粋して掲載

青森までの所要時間、時間帯を考えると、これらはどちらかというと東北内が目的地の列車です。
1950年代半ば、日本海側の青森・秋田県から「金の卵」と呼ばれた若者が、集団就職列車に乗って上野駅に降り立ちました。
彼らは東京で一旗揚げて、その頃沿線ではエリート列車だった「津軽」に乗って故郷に錦を飾ろうと夢見ていたのです。

集団就職を題材にした「あゝ上野駅」の歌碑

地元の誇りだった「津軽」も、1970年に特急「あけぼの」が登場すると、出世列車のステータスはそちらに移ります。
その頃の「津軽」は出稼ぎ列車の雰囲気が強く、「上野駅で新聞を敷いて待っていた口の重い男たちが、車内で酒が入ると一変し、生きのいい秋田弁に周囲まで酔いしれる事になった」(眞船直樹:私的夜行列車文化論)らしいです。

「あけぼの」は民営化後、上野~新津(新潟県)~秋田~青森にルートを変えますが、本記事で紹介している列車の中で最後まで生き残ります。
廃止された2014年まで、新幹線の恩恵を受けにくい秋田~青森の沿線にとって貴重な夜汽車であり続けました。

廃止直前の「あけぼの」2013年12月。
筆者にとって最後のブルートレインの旅だった。
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常磐線経由「十和田」・「ゆうづる」

青森行きの夜行列車が最も多く運転されていたのが常磐線です。
こちらも仙台までの距離は東北本線と15㎞しか違わず、海沿いで線路が平坦なので、東北本線が近代化される前はむしろ常磐線の方がメインルートでした。

列車名上野発青森着札幌着
特急「ゆうづる1号」19505031340
特急「ゆうづる2号」20005081340
急行「十和田2号」20509041832
特急「ゆうづる4号」23009251832
急行「十和田4号」232111402028
列車を抜粋して掲載

時間帯の早い「ゆうづる1,2号」は早朝に青森に着く、典型的な北海道連絡列車です。
短い間隔で運転されているあたり、常磐線が北海道への夜の大動脈であることが感じられます。

旧駅舎時代の青森駅のギャラリー
2019年9月

「ゆうづる1,2号」と比べて、同じ特急でも「ゆうづる4号」は所要時間が長くなっています。
なぜかというと、前者は「はくつる」と同じ速度の速い寝台電車なのに対し、後者は機関車が客車を牽くブルートレインだからです。
「ゆうづる4号」は上野~青森の時間帯が良好なことから、北海道連絡列車は電車、東北地方で完結する列車は客車と使い分けられていることが窺えます。

冒頭示した通り、この時点では「ゆうづる」「十和田」の本数は拮抗していますが、2年後には「ゆうづる」が「十和田」2往復を吸収して7往復にまで成長し、「夜のエル特急」とまで呼ばれるようになります。
実際、この当時の夏場には発売開始当日に寝台券が売り切れてしまうことも当たり前でした。
早朝の青森駅に着いて連絡船乗り場へなだれ込む人の群れは、演歌で歌われるように1970年代の風物詩でした。

青森駅の連絡船のりばへの階段跡

やはり飛行機で北海道入りするのと、船でだんだんと近づいて上陸するのとでは、旅の心持ちというものが全く違ってきます。
作家の宮脇俊三氏は「船ではなく飛行機で北海道へ行くのは、序曲を聞かずにオペラを観るようなもの」と語っています。

苫小牧港に接近するフェリーから見た北海道の大地
2018年12月
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記憶に残る夜汽車

現在の青森駅付近、黄色の船がメモリアルシップ八甲田丸
ああ津軽海峡冬景色…

高度経済成長期の真っただ中に発表された「あゝ上野駅」(1964)は、北国から集団就職列車で上野駅に来た若者の希望を表現しました。
そして、本記事の1973年を経て、低成長時代の「津軽海峡冬景色」(1977)は、悲しみに暮れた女性が夜行列車と青函連絡船で北海道へ帰っていく姿を綴ります。

「上野駅二大ソング」が映し出すこの二つの対比は、この時代の激動する社会の暗示であり、そして上野発青森行き夜行列車とその乗客たちが物言わずに紡ぎだしてきた情景でもあるのです。





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